今月のトピック by 村本邦子

2013年9月 死者たちの声に耳を澄ます

十年のプロジェクトとして立ち上げた東北巡業も3巡目に入った。プロジェクトは、毎年、9月のむつからスタートするが、ひょんな巡り合わせから、むつに入る前、まず恐山に入ることになっている。恐山と言っても、今や山道も整備されて大型バスが入り、ややテーマパーク化した感は否めないが、それでも、ひとたびそのおどろおどろしい空間に身を置けば、一種異様な感覚に包まれる。宇曽利湖の極楽浜に佇んで耳を澄ませば、風と波に乗って、死者たちの声が聴こえてくるような気がする。実際に何かを聴いたことはないが、誘惑的な空間であることは間違いない。境内にある湯小屋の温泉で身を清めて下山する。

いとうせいこう『想像ラジオ』(河出書房新社)を読んだ。状況を掴むまでは少し混乱するが、死者たちの声と鎮魂の物語だ。そこに、死者たちの声に耳を傾けることについての議論が出てくる。「俺らは生きている人のことを第一に考えなくちゃいけないと思うんです。・・・その心の領域っつうんですか、そういう場所に俺ら無関係な者が土足で入り込むべきじゃないし、直接何も失ってない俺らは何か語ったりするよりもただ黙って今生きている人の手伝いができればいいんだと思います」「ガメさんが広島の慰霊碑の前で声を聴いたというのは、何か自分も役に立ちたいと考える側の身勝手な欲求ですよ」「亡くなった人の声を自分の心の中で聴き続けていることを禁止にしていいのかっていうことなんだよ」「行動と同時にひそかに心の底の方で、亡くなった人の悔しさや怖ろしさや心残りやらに耳を傾けようとしないならば、ウチらの行動はうすっぺらいものになってしまうんじゃないか」・・・。

「死者と共にこの国を作り直して行くしかないのに、まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ。この国はどうなっちゃったんだ」「木村宙太が言ってた東京大空襲の時も、ガメさんが話していた広島への原爆投下の時も、長崎の時も、他の数多くの災害の折りも、僕らは死者と手を携えて前に進んできたんじゃないだろうか?しかし、いつからかこの国は死者を抱きしめていることが出来なくなった。それはなぜか?」「声を聴かなくなったんだと思う」

「この国」がかつては死者の声に耳を傾け、死者とともに国を作り直してきたとは思わない。もしも本当にそうであったなら、たとえ大きな地震や津波があったとしても、状況は違っていただろう。「この国」は、空襲や原爆の被害者たちの声に耳を傾けてこなかったばかりでなく、加害の結果として被害を与えてきたたくさんの人々の声にも耳を傾けてはこなかった。9月20日、南京セミナーの最終日、慰霊碑の前で追悼式を行った。今や恒例行事であるが、今回は若い世代を主役にしたので、個人的には十分な追悼をやり損ねた感じがする。何かが聴こえてくるわけではないが、もっともっと死者の声に耳を澄ます時間が必要だと感じたのだ。もちろん、それは、慰霊碑の前でなければできないことではない。自分なりにやれることはあるだろう。

一方で、阪神淡路大震災の時の教訓がある。それは、死者たちにとらわれすぎて、自分にとって大切な生者たちのことを忘れてしまってはならないということだ。10月は多賀城へ行く。死者たちの声に耳を澄ましながら(それはつまり、何かを聴くということより、死者たちの存在を感じるということである)、生者たちとの時間を大切にしなければ。