今月のトピック by 村本邦子

2013年8月 テレジンを訪れて

アジア諸国を回るとあちこちで日本軍の蛮行の痕と出会うが、ヨーロッパを巡るとあちこちにホロコーストの痕が博物館となっている。あまりに大きすぎてなかなか全体像をつかむことができないが、機会があれば訪れ、少しずつ勉強するようにしている。アウシュビッツ、ビルケナウ、ザクセンハウゼン、ラーヘンスブリュックなど見てきたが、この夏は、チェコにあるテレジンを訪れた。

チェコではハプスブルク家の支配下にあった四百年を「暗黒時代」と呼ぶそうだが(私たちには華やかに思われるハプスブルク家も、支配される側から見れば暗黒であることにあらためて納得する)、18世紀後半、オーストリアはこの地にプロイセンの侵入を阻止するための要塞を建設し、女王マリア・テレジアの名に因んで「テレジエンシュタット(テレジアの街)」と命名した。19世紀には、反ハプスブルグ運動の政治犯を投獄する刑務所の役割を担っていた。第一次大戦後、チェコスロヴァキア共和国としていったん独立するが、1939年、スロヴァキアは独立宣言をしてドイツと保護条例を結び、チェコはボヘミア・モラヴィア保護領としてドイツの支配下に入る。

1940年6月、ナチス・ドイツはこの小要塞に拘置所を設置し、1941年11月、大要塞(テレジンの街)にユダヤ人ゲットーを作り、封鎖して、1942年半ばにはテレジンの街全体を強制収容所とした。そして、ユダヤ人絶滅政策をカモフラージュするため、ここでの文化活動を容認し、「美化キャンペーン」と称するプロパガンダに利用した。外観を整え、調査に訪れる国際赤十字を収容者によるオーケストラで迎え、宣伝用フィルムを製作するなどしていたのである。テレジンの資料館には、子ども達が描いた絵がたくさんあった。収容所の生活、かつての暮らしや将来の夢など生き生きと描かれており、プロパガンダとは言え、これはどういうことかと我が眼を疑った。

実は、テレジンに収容されていた人々のなかには芸術家や文化人が大勢いて、苦痛と恐怖に怯える子どもたちに、たとえ限られた時間であっても人生は素晴らしいと伝えたいと、大人たちが決死の覚悟で教室を開いていたのだそうだ。絵を教えたのは、ウィーン生まれのユダヤ人、フリードル・ディッカー(1898〜1944)。彼女は売れっ子デザイナーで、迫害を逃れてプラハに移るが、やがてそこにもナチスの手が及ぶようになると、子どもたちを家に招いて絵を教えるようになる。逃亡を勧める友人の勧めを「子どもたちをおいて逃げるわけには行かない」と断り、ありったけの画材をスーツケースに詰めてテレジンに入った。

「テレジンを語りつぐ会」HP(http://www.teresien.jp/)によれば、フリードルは、子どもたちに美しい花やかわいい犬の絵を描いてやり、子どもたちにも絵を描かせた。「明日、戦争が終わるかもしれないのよ。希望を捨ててはだめ。」「楽しかった日のことを思い出して絵を描きましょう。きっとまた、そんな日が来るわ」と励まし、絵に署名するように勧めた。生き残った子どもたちは、後に「テレジンの記憶には、楽しかったという言葉はあてはまらないですが、それでも、楽しかったと思える時間があるとしたら、それは、フリードル先生の絵の教室のときでした」 と語っているという。なお、子どもたちが遺した4千枚の絵と詩は20年後にようやく日の目を見、現在はプラハのユダヤ博物館にある。資料館のものはレプリカだそうだ。

テレジンに送られたユダヤ人は、およそ14万4千人。4分の1が病気、飢え、過労、ドイツ兵による暴行で亡くなり、8万8千人が東へ、すなわちアウシュビッツなど絶滅収容所に送られた。1944年10月、フリードルも東へ送られている。テレジンでは、少年たちが秘密の雑誌を発行し、収容所の日々の生活の記録や楽しかった思い出、死への恐怖など書き記したという話もある(林幸子編著『テレジンの子どもたちから』新評論、2000年)。どのようにこんなことが可能だったか。人間の持つ力について、まだまだ学ばなければならない。チェコは歴史的に支配下に置かれていたため、指導的階層が存在せず、作家やジァーナリストなど文化人が政治の中心になり、その伝統は現在まで続いているという。どんな暴言を吐いても政治家として失脚することのない日本のことを考えると暗澹たる気分になるが、これらの話を日本でも語り継いでくれている人たちの存在に希望を持ちつつ学び続けたい。