今月のトピック by 村本邦子

2013年7月 女と原発

原子力の平和利用。何度も耳にしたことがあるような気がするが、その意味を一度も考えてみたことはなかった。原子力の平和利用とは、具体的に何を意味しているのだろうか? もともとこの言葉は、1953年、アイゼンハウアーが大統領就任時の演説で、東西冷戦のなかで核戦争の危機と「原子力の平和利用(Atoms for Peace)」を訴えたことに遡る。単なる核削減や廃絶だけでなく、国連下に原子力機関(IAEA)を置き、電力の乏しい地域に電力を供給しようという内容だったが、電力供給イコール平和というだけなら、どう考えても、その根拠はあまりに脆弱である。

加納実紀代さんの『ヒロシマとフクシマのあいだ〜ジェンダーの視点から』(インパクト出版会)を読んだ。これまでも、女たちの戦争責任を問う知的誠実さに感銘を受けてきたが、彼女自身が、5歳の時、広島の2キロ以内の地点で被爆した体験を持つこと、そして、ジェンダーの視点からしばしば核について語ってきたことを初めて知った。

広島・長崎への原爆投下から十年経った1955年、広島で原水爆禁止世界大会が開かれ、女性平和運動の中心である母親大会の第一回大会が開催されている。その一方で、この年、原子力基本法が成立、東京で原子力平和利用博物会が開催された。この博物会は、その後、名古屋・大阪・広島など全国十か所を巡回したが、広島の会場は原爆資料館である。この1年のパワー・ポリティクスは、田口ランディ『ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ〜原子力を受け入れた日本』(ちくまプリマー新書)に詳しい。

敗戦直後、昭和天皇は疎開先の皇太子に手紙を出し、敗因を「我が軍人は精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである」と綴った。「つくる会」元会長・西尾幹二は、学校の作文に、「・・・原子爆弾はすごい爆発力があって、その爆弾を使えば二、三日すると日本の本土の人員はなくなるそうです。・・・今、降伏しておいて又、敵と戦争し勝利をえるのだそうです。今度の戦争は科学戦だから、理数科をしっかりやって発明するのです。その任務は僕たちです・・・」と書いた。そして、元主計中尉・中曽根康弘は1951年、日本を訪問したダレス特使に原子力研究の自由を認めるよう文書で依頼、54年には原子力開発を国策として起動させる。戦争責任を問うことではなく、科学力の掌握こそが目標となった。『鉄腕アトム』は1952年〜1968年に雑誌連載、1963年〜1966年、テレビ・アニメ化されている。

皮肉なことに、「母性」と結びついた平和運動がこれをバックアップすることになるが、そこには女性解放への夢ものせられていた。「明るい原子力」のイメージとともに、「アメリカ文化=電化生活=女性解放」という等式が成り立っており、1948年の『アサヒグラフ』に載った芝浦電気(現・東芝)の洗濯機のコピーは「女性を解放する」、富士電機の広告は「洗濯しながら本が読める」だったという。たしかに、「婦人公論」を舞台に「主婦論争」が起こったのは1955年で、電化製品の登場を背景に専業主婦無用論が唱えられ、原水禁など市民運動に立ち上がる主婦の存在から主婦有用論が展開された。電化生活が女性を家事労働から解放し、女性たちは原水禁と平和運動に盛り上がると同時に、原子力の平和利用を推進し、原発導入を図ろうと目論んでいた経済界を支持することになった。加納さんは、「女性たちは核兵器反対の平和運動をにないつつ、経済発展に突っ走る男たちの銃後を支えることになる」(p.214)と表現している。

振り返って後から批判するのは容易い。自分だって「原子力の平和利用」の意味を一度も考えたこともなかったのだ。2011年より十年計画で立ち上げた「東日本・家族応援プロジェクト」では毎年9月に下北半島むつ市を訪れる。「原子力船むつ」というのも聞き覚えはあるもののその意味をほとんど認識していなかったし、実際に行ってみるまで、核燃料サイクル施設のこともほとんど理解していなかった。そんななかでも、「何かおかしい」という素朴な感性を頼りに、圧力に屈せず抵抗し続けてきた稀有な人々もいるのだ。鎌田慧・斉藤光政『ルポ下北核半島〜原発と基地と人々』(岩波書店)を是非読んで欲しい。気づいた者からほんの少しでも賢明にならなければ。