今月のトピック by 村本邦子

2013年4月 ナチになっていく〜ナラティブ・ネットワーク・モデル

文化人類学者の友達小田博志さんの勧めで、同タイトルの論文を読んだ(Bearman, P. S. & Strovel, K., 2000. Becoming a Nazi: A Model for narrative networks. Poetics 27, 69-90)。ナラティブ・ネットワーク・モデルという質的研究法について例示したものだが、扱っているテーマが興味深い。

ドイツにおいて、1919年1月に設立されたドイツ労働者党は、1920年に国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)に改称した。アドルフ・ヒトラー率いるナチスのことだが、1933年に政権を獲得し、後に独裁体制を敷くようになるまで、少なくとも1930年以前、これは標準だったわけではなかった。政権獲得後にナチのアイデンティティを持つことは実用主義的だったかもしれないが(つまり何らかの利益が得られる)、それまでは、ナチになることには代償やリスクを伴った。それにも関わらず、ナチのアイデンティティを持つ人々が増えていったからこそ、第三帝国が誕生したことになる。

初めて知った話だが、1934年、ナチの権力が強固になり、「最終解決」(大量虐殺)の考えが拡がる前、コロンビア大学の社会学者テオドール・アベルによる「ナチ運動支持者の最高のライフ・ストーリー」を募集するコンテストがあったのだそうだ。NSDAPとSA(結党から政権獲得までの闘争時代、反対政党に対する武闘組織としての突撃隊)がスポンサーになって賞金が出たので、600ものストーリーが集まった。そのほとんどが、まだナチ党員の少ない1930年より前からその運動に参加していた男女である。

著者たちは、ナラティブ・ネットワーク・モデルを使って、それらのストーリーを分析することで、人々がどのようにナチになっていくのかを解き明かそうとした。彼らは、アイデンティティを「世界における行為者としての主観的自己感覚」であり、「その表現として、またそれを構成するものとして行為の根底をなすもの」とするが、通常、アイデンティティは、関係性が増幅していくなかで形成されていく。ところが、「マスター・アイデンティティ」(自分は主であるというアイデンティティ)は文脈を無視した行為をもたらす。つまり、これを身につけると、関係性と行為というペアなくして、行為のみがアイデンティティの基礎となる。

集まったストーリーを分析していくと、「ナチになっていく」ストーリーと「ナチである」ストーリーに分けられるが、「ナチになっていく」ストーリーは、濃密に関連する物語性を帯びているのに対して、「ナチである」ストーリーは、小さく断片的で孤立していた。また、ストーリーの要素はマクロレベルの要素(外の社会や世界に関すること、たとえば大戦や暴動、経済不況など)、ローカル・イベントの要素(身近な日常で起こった出来事)、認知(本人の意味づけや結論)に分けられるが、「ナチになっていく」「ナチである」のどちらにおいても、マクロレベルの要素はほとんどないに等しく、ローカル・イベントの要素が大半を占め、残りは認知だった。

さらに見ていくと、「ナチである」ではほとんど常に認知が先行する要因の結果であるのに対し、「ナチになっていく」では、無関係の要素をつなぐために認知が重要な役割を果たしていた。「ナチになっていく」のナラティブの特徴は関係性や伝統的なアイデンティティの基礎となるもの(親族、教会、学校、仕事など)がナラティブの進行とともに減少し、さらには拒絶されていくことである。世界の流れに流されて社会的関係をはぎ取られ、単純な認知的抽出に捉われるようになり、経験を二者択一に位置づけ、バラバラの出来事を結び付けていくことからナチという新しい自己が生まれ、流れのなかでNSDAP支持者と出会い、物語が好機や運命の色合いを強くしていく。これが初期のナチの特徴だった。反ユダヤ主義はほとんど前面に登場しない。プロセスが完了し、ナチになってしまうと自己は消える。物語を作動させるものが何もなくなり、機械的な窓口が残るだけである。何を語っても事実のレポート以上のものではない。それは物語ではなく、行為者のいない行為の陳腐な一般論であるという。

社会の大きな流れに流されるのではなく、その正体を見定めること、身近な日常生活や関係性を手放さないように努力し続けること、単純な二者択一に捉われないことがポイントになるだろうか。「愛着からソーシャルネットワークへ」(http://www.flcflc.com/muramoto/09/12.html)でも書いたが、多様なネットワークのなかに生きることが重要だろう。