今月のトピック by 村本邦子

2012年5月 「私」のなかの他者・社会・歴史と出会う〜HWHのトレーニングを受けて

このゴールデンウィークは、丸5日にわたってアルマンド・ボルカス氏によるHWH(歴史の傷を癒すhttp://www.flcflc.com/muramoto/09/03.html)のトレーニングを受けた。初めの部分ではドラマセラピーの基礎を学んだが、これまで断片的に経験してきたことを体系立てて学び直し、あらためて腑に落ちるところもあったし、惜しげなくさまざまな技法を教えてもらいレパートリーも増えた。ドラマセラピーの技法については、受け入れの個人差や好き嫌いもあるだろうが、慣れも大きいように思う。私自身も、最初から受け入れやすいもの、ちょっと違和感のあるものなど差があったが、回を重ねて馴染むにつれて、だんだんと面白くなってきた。技法とは道具だから、自分の使いやすいもの、気に入ったものから使っていくのが良いだろう。

今回、あらためて痛感したのは、アイデンティティの成り立ちについてである。これまでも、歴史のトラウマと直面するなかで繰り返し考えてきたことではある。HWHの技法のひとつに「アイデンティティのワーク」というものがある。グループの前に立って、「私は○○(名前)です。私は○人(国籍や民族)です」と言ってみると、どんな感情が沸き上がってくるかということを体験してみる。これを日本人でやると、いつも必ずと言ってよいほど戸惑いが先に立ち、「関西人です」「東北人です」といった具合に地域を言う人が多かった。さまざまな言語で試しもするが、”I’m Japanese.”と英語で言う方がたやすい感じがする。

きっと日本に住む日本人は日本語でこのような自己紹介をするチャンスが少ないからだろうと思っていた(別の言い方をすれば、日本のマジョリティである日本人はどこまでも無自覚にそれを前提として生きているという傲慢さの表れでもあるだろう)。ひとたび国外に出れば、そのチャンスは増える。それに比べて、アメリカのように多文化・多民族・多国籍で成り立っている国では、○人というアイデンティティは重要なものだろう。たとえばアルマンドなら、ユダヤ人、アメリカ人、フランス人、スペイン人というアイデンティティを持っている。そのどれを主張するかで感情状態が変化するだろうことは想像に難くない。使用する言語によっても違うことだろう。

今回のグループで多くが体験したことは、むしろ誰に向かって言うのかによって感情が変化するということである。たとえば、日本人が日本人に向かって「私は日本人です」と言ってみてもあまり感情は動かないが、中国人や在日コリアンに向かって言えば、居心地の悪さや罪悪感が出てくる。加害・被害という歴史についてよく知らなかったり、よく考えていなかったりすれば、感情状態はまた違うかもしれない。アイデンティティが場面や文脈によって変化するのは当然のことだと感じていたが、多くのアメリカ人のアイデンティティは文脈によって変化したりしないのだそうだ。むしろ、文脈に関わらず確固たるアイデンティティを獲得することが求められるのだという。だが、少なくとも私たちは(正確には誰を指すのか、現段階では不明瞭であるが)、相手によって「私」の在り方が調整されることを経験する。つまり、「私」は社会的文脈や歴史的文脈によってその都度構築されるのだ。

サイコドラマの手法を使って、乗り越えがたいわだかまりとなっている場面を再構成すると、「私」がいかに他者との関係性において構築され、他者の「声」によって縛られており、それをシンボリックに変容させることができれば、「私」も変化するのだということを体験する。「私」の脱構築、「私」の再構築である。二人がペアになって自己紹介した後、グループの前では、アイデンティティを交換して、相手を演じながら自己紹介するというワークがある。あるいは、誰かの心の中にある声を演じる「ダブリング」という手法がある。こういった体験を通じて、「私」のなかに「あなた」があり、「あなた」のなかに「私」があることを知る。理解し共感しあう行為は、「あなた」を受け入れ、「私」を拡大することなのだ。深く学ぶことや深く感じることを通じて、「私」は常に構築され続けるということになる。それは、演劇、映画、小説、音楽、絵画等による体験でもよいのだ。

ウディ・アレンに「私の中のもうひとりの私」という映画があった。50歳になる哲学教授が疲れて居眠りをしていると、隣室の精神分析医のもとに通う患者の声が聞こえてくる。聞くともなしに聞いてゆくうちに、ずいぶん昔に切り捨ててきた自分の一部が立ち現われてくるという内容だ。他者の声を契機に、過去に忘れてきた私の断片を拾い集めながら、「私」が再構築されていく物語である。「私」の再構築が面接室の外で起こっていることが面白い。心理学ブームは、「私」があたかも閉じられたシステムであるような誤解を生みだしているが、サイコサラピーとは本来、他者の声を受け入れ、他者との関係性のなかで「私」を変容させていくプロセスではなかったか。HWHは明らかに心理学的手法を使うが、このように、「私」が実は社会や歴史に開かれてあることを明らかにするものであり、最終的なゴールとして社会変革が掲げられているところが素晴らしい。今後の展開の予感にわくわくしている。