今月のトピック by 村本邦子

2011年12月 コミュニティのレジリエンスを尊重する

すでに何度も書いてきたが、「東日本・家族応援プロジェクト」を立ち上げ、東北を巡っている。今月は福島に行ってきた。チェルノブイリのトラウマ研究について紹介したが(今月のトピック2011年5月「原発とトラウマ」)、原発の問題は、津波被害とは違って、問題の正体が曖昧模糊としてつかみ難く、災難の始まりと終わりがはっきりしない。しかも、これから先まだ何が起こるかわからない不安を抱え、その影響は、無力感と抑うつであるという。

福島で漫画展とワークショップをやって、大人も子どもも支援者も、誰も彼もが互いに思いやりあっている姿に胸を打たれると同時に、胸が痛み、これをどのように理解すればよいのか、ずっと考えていた。支援者たちは、陰で苦しみ泣きながら、自分たちが支援すべき子どもや家族には笑顔と安心を与えられるよう、精いっぱい努力していた。親は子どもたちにずっと付き添い、暖かく見守り、子どもたちは子どもたちで、終始ニコニコとよい子にしていた。価値基準や行動選択の違う家族同士も、互いを尊重しあっていた。間違いなく、ケアリング・コミュニティというのがぴったりの光景である。皆が不安な状況だからこそ、肩を寄せ合って温かさを分かち合っているのだろう。

チェルノブイリの研究では、強制避難によってコミュニティの絆が破壊されたことがもっとも大きなストレスになっていたが、少なくとも、現在、福島で暮らしている人々は、コミュニティの絆を保持していると言える。インドネシア、パキスタン、ソロモン諸島、ケニア、ミャンマーでの自然災害における人々の行動を調査した研究によれば(Ride, A. & Bretherton, D., 2011, “Community Resilience in Natural Disasters, Palgrave Macmillan)、レジリエンス(逆境を跳ね返して生き延びる力)の根源は、生き延びるために、人々が身を守り、互いに助け合い、団結することにあるという。外部からの支援団体はこれを認識し、尊重することから始めるべきで、「命令と統制」による中央集権的な支援はコミュニティの絆を破壊し、格差や差異による構造的暴力を進行させる。

「災害ユートピア」という言葉がある。阪神淡路大震災のときも、今回も、災害後、日本人がどれほど礼儀正しく互いに助け合っているかが報道で強調されていたが、これは、本当のところ、どんなコミュニティにも見られる現象である(ソルニット, K.『災害ユートピア—なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか』、亜紀書房)。そして、この一時的なユートピアは、国家による救援態勢と管理が進行するとともに消えていくのであるが、秩序がなくなった途端、人は他者とつながりたい、他者を助けたいという欲望に駆られることを示している。経過を知らないので必ずしも自信を持って言うわけではないが、震災後9か月近く経っても、この状態が維持されているのだとしたら、それは逆に、安心できる日常が戻ってきていないことの表れなのかもしれない。

いったい、この力を今後どのように生かしていけるのだろうか。先の研究では、インタビューをしたさまざまなコミュニティの住民たちは、決して、回復や復興という言葉を使わなかったことを強調していた。彼らはコミュニティを災害前の状態に戻すことを望んでおらず、繰り返し災害の記憶を語り、共有し、コミュニティがそれを生き抜いたことに誇りを持っていた。福島のコミュニティのレジリエンスの行方を見守りながら、原発に責任ある存在としての自分の行動について考えなければならない。一方で、コミュニティから離れ、バラバラになってしまった人々のことが気にかかる。