今月のトピック by 村本邦子

2011年2月 街頭紙芝居と「子ども溜まり」

今年もおもしろい修士論文がたくさん出来上がってきた。その中から、今月は街頭紙芝居の研究を紹介したい。娘が幼稚園の頃、よく楽しい手作り紙芝居を作っていた。私がではない。娘がである。紙芝居を作るのは意外と難しい。文字と絵がずれないように、そして、めくり方の工夫で場面がうまく展開するように考慮する必要がある(つまり、少しずつ抜いたり、一気に抜いたりなど、現在の場面と次の場面の関係性を考えて絵を描く)。「よくこんな高度なことができるもんだなぁ」と感心して見ていたものだ。

大阪に暮らしていると、たまに公園でおじさんが自転車でやってきて子どもたちを集めて紙芝居をしている光景を眼にすることがある。こんな光景が公園で見られるのは、大阪だけらしい(もしも、どこかよそでもやっていることをご存知の方があればお知らください)。この学生の調査によれば、紙芝居の源流は平安時代にまで遡り、1930〜1936年、子どもたちの娯楽として大きな発展を遂げたが、1937年より戦機高揚のための「国策紙芝居」が登場し、政府は街頭紙芝居を取り締まった。戦後はGHQの取り締まり下で、非教育的な内容が排除された「民主主義紙芝居(平和紙芝居)」が復活したが、テレビの出現や教育紙芝居が主流となったことで、街頭紙芝居はほとんど見られなくなってしまったという。

きっと皆さんの頭の中で、「教育紙芝居と街頭紙芝居ってどう違うの?」という疑問が沸いただろう。私も知らなかったが、要するに、今、私たちが幼稚園や学校の図書館で見かけるのは教育紙芝居だ。教育紙芝居は教育目的なので、人が殺されたり、人を馬鹿にしたり、下ネタ的な描写は一切ないのに対して、街頭紙芝居は、もともと「街頭」で行われていただけに、自由奔放で娯楽中心である。昭和20年代、30年代の街頭紙芝居の絵はすべて絵師による1点もので、街頭紙芝居は基本的に手書きだったが、昭和40年代以降、絵師がほとんどいなくなり、学校で教育紙芝居が利用されるようになってから、紙芝居は印刷されるようになった。手書きの紙芝居には裏書きがなかったり、あっても適当な下書きだけだったりしたようだ(自分で作ってみるとわかるけど、絵と字を合わせるのは案外、難しいのだ)。

要するに、街頭紙芝居は観客とのやりとりが中心で、途中で野次や質問が飛び交う。そして、駄菓子つきだった。現在、街頭で子どもを集めて紙芝居をやるなんていうのは危険だし、非現実的なので(昔の子どもたちは街頭=道端で遊んでいたものだが)、東京や仙台はじめ今でも盛んに行われている街頭紙芝居は、そのほとんどがイベントや室内での公演である。その理由は、ほとんどの都道府県で「外でお菓子等を売る」ことが条例レベルで禁止されているからだそうである。また、東京ではヘブンアーチスト制度(公共空間で活動するにはアーティストのライセンスが必要)というのがあって、路上でのパフォーマンスが厳しく規制されている。というわけで、大阪で見ることができる公園紙芝居は昔の街頭紙芝居に限りなく近い形で残っている貴重な存在である。つまり、パフォーマンス型の紙芝居ではなく、駄菓子やクイズなど紙芝居師と子どもたちとの関わりあいが大きな比重を占めている。

この学生は、公園紙芝居によって作られる空間を「子ども溜まり」と名づけた。紙芝居師の拍子木の音で子どもたちが集まり、だんだん溜まっていく。駄菓子やら、クジやら、カタヌキやら、子どもたちは頭を使いながら持っているお金を使い、おマケの交渉し、お金のない子はクイズに挑戦する。紙芝居師が子どもたちに売る駄菓子はかなり怪し気である。タコせんにソースとチョコレート、その上から天かすや練乳をかけるなどバラエィ豊かで、スーパーやコンビニ、駄菓子屋では買えないユニークなものである。買ってもいいし、買わなくてもいいし、紙芝居さえ、見てもいいし、見なくてもいい。そこでは、子どもたちが思いのままに過ごしている。格別に教育的意図を持たない大人である紙芝居師が子どもたちに暖かい眼を向けるなかで、異年齢の子どもたちが教え・教えられ、助け・助けられる関係が存在する。強制がなく守られた空間が現代の子どもたちにとって、どんなに貴重であることか。

あらためて考えてみると、私たちは、「教育的」という名の元に子どもたちの楽しみの多くを奪ってきたのではないだろうか。生活の知恵や生きる力は、必ずしも教育的営みから得られるわけではない。子どもたちが溜まり、エネルギーが湧き出てくるそんな場がこれ以上、消えていかないことを願う。