今月のトピック by 村本邦子

2010年11月 死を準備する

夏に友人を亡くした。末期癌でホスピスに入院したと聞いてすぐに駆けつけ、家族の人がおっしゃるには、一番良い状態の日に一緒にひと時を過ごすことができた。お葬式には行けなかった。お葬式は生き残った人たちのためにあると思っているので、せめてご家族にメッセージを届けられたらと思ったが、お花の受け取りはしないとのことで、結局何もすることができなかった。きっと故人の遺志だろう。形式的なことが嫌いな人だったから。それでも、告別式やお別れ会の様子はネット上で公開され、後で個人的に参列することができた。これもきっと故人の遺志だろう。とても楽しそうな心温まるお別れ会だった。

この秋、昔、お世話になった先生より、パートナーを亡くしたことを聞いた。黄金のひと月を海外で過ごした後だったそうである。こちらはずいぶんご年配だったが、死の準備を重視しており、そんな本を書いたり、活動をされていた。ご自分のお葬式の準備もしっかりとなさっていて、お別れの集い用のCDが送られてきた。音楽とご本人からのお別れのメッセージである。「天国からごあいさつを」と始まり、ご自分の人生を振り返り、残された者たちにメッセージを投げかけるという内容だった。聞いている側にも人生を問い直すことを促すと同時に、ユーモラスな感じがして「なんだかいいなぁ」と思った。

エジプトやバリの埋葬についてはこれまでも書いてきたが、宗教的文脈のなかでそれぞれの葬儀の形がある。日本では火葬が一般的だが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、儒教などの考え方によれば、火葬はもともとタブーだったようである。昔、「ガンジー」の映画で観たことがあるが、水葬というのもある。バリの小さな村や宮古島などの風葬というのも聞いたことがある。火葬の特徴は即座に遺体をなくしてしまうことなので(どこまで残すかは焼き加減による)、土地の少ないところでは火葬が選ばれやすい。土葬や水葬では遺体が徐々に腐敗していくので、段階を追って消えていくし、ミイラはそれを永遠に保存しようとするものである。社会主義国では過去のリーダーをミイラにして残しているし(宗教を否定するわけだから、これはまったく政治的理由と言える)、即身仏などというのもすごい発想だなと思う。

私自身は特定の宗教を持たないので(宗教心はあると思っているが)、遺体について格別なこだわりはないが、残された者たちにとってより良い形を選びたいし、それが信じられることが心安らかに死ねることにつながるのだろう。多分に心理学的発想と言えるが、上記に紹介したお二人は、それぞれに信仰を持ち、残された者たちに対するきめ細かな配慮が行き届いた準備をされたことに感心するし、敬意を覚える。

若い頃、死について考えるのが怖かった。遺体について想像するだけでパニックになりそうだった。もともとは医学部を目指していたが(精神医学をやろうと思って)、人体解剖のことを考えるだけで恐ろしく、文系で心理学が学べることがわかって本当に救われた気がしたものである。それでも、長く生きてくるなかで、だんだんと生のなかに死を受け入れることができるようになってきた。時々は、できれば長く生きたいけれども、途中で途絶えたとしても本望ではないかと思う。それなりに十分に生きてきたし、個としての自分が失われても命は続いていくだろう。エリクソンの世代性や統合の課題が実感される瞬間である。

一方で、今もなお、考えていると怖くなる時もある。「こんなことを考える自分は近く本当に死ぬんじゃないだろうか」という考えに襲われ、突然、それまでの死についての達観が消えて、生への未練と執着でいっぱいになる。今年は家族でそれぞれの葬式の希望について話し合うなど、少しずつ考え始めてはいる。ボチボチにと思っているが、願わくば準備が整うまでの猶予が欲しいものだ。もしも間に合わなかったら、残された者たちには、おっちょこちょいの私らしいと笑ってもらうしかない。

死を準備する行為は、残していく者たちと自分とのつながりをあらためて思い起こし、残された自分の命をどのように尽くすのかを心に刻むことと言えるだろう。