今月のトピック by 村本邦子

2010年7月 傷ついた男たち〜「ラースとその彼女」から

立命館の朱雀キャンパスで、公開講座「シネマで学ぶ人間と社会の現在シリーズ5:ひとりだけどひとりじゃない、虚構というリアル」を開催中である。映画上映と講師のトーク。7月は「ラースとその彼女」で、中村正さんと私とで対談をした。

中村さんによれば、「傷ついた男」というテーマは男性学においてもなかなか上がってこないのだと言う。「へぇ、そうなのか」と初めて知った。男らしさは無敵の強さなのだから、考えてみればそうなのかもしれないけれど、それならなおのことテーマになってもいいような気がする。とは言え、私から見れば、男たちは傷ついている。ダラダラ血を流しながら、自分の怪我に無頓着なだけだ。そんなふうに育てられてきたから。このシリーズの1本目で扱った「空気人形」でもそんな男たちの姿が辛かった。空気人形が痛々しいのは間違いないが、その向こうに男たちの哀しさが透けて見える。

自分の子どもを産むために妻を死なせてしまった男は、どのような気持ちを抱えて生き続けるのだろう?成長していく子どもの中に妻を見るのか、自分を見るのか?そして、そんな父親に育てられた子どもは、どんな自己像を作り上げていくのだろう?

ラースは小さな田舎町に住む27歳。毎日、きちんと仕事をし、日曜には教会に通い、町の人々に挨拶をする。親切で礼儀正しい青年なのだが、実は、誰とも近づかないよう心を閉ざし一人で生きている。隣に住む兄夫婦には間もなく子どもが生まれるのだが、不安をかき立てられるラースはますます無口に遠ざかり、義姉は心配でたまらない。強引に接近してくるこの義姉に追い詰められる形で、ラースは「妄想」の世界に入り、ビアンカという名前のリアルドール(いわゆる「ダッチワイフ」)を彼女だと信じ込む。驚いた兄夫婦は心理学者でもある医者に相談するが、最終的には、彼の世界を受け入れるしかないことを果敢にも受け入れ、町の人々の理解を求め行動する。

こうして、ビアンカを介在させる形で、ラースは少しずつ街の人々と関わりを持つようになる。おそらくは自分の存在を罪だと感じてきたラースにとって、他者に何かを期待したり、欲望したりすることは許されないことだったのだろう。ビアンカの存在によって、初めて、自分の感情を受け入れ、表現し、他者と交わることができるようになる。義姉とラースが言い争う場面は感動的だ。ぶつかることができなければ、交わることもない。現代の若者たちが苦手とするものでもある。

この作品のおもしろさは、こんなふうに傷ついた男の生き直しが、カウンセリングルームのような閉ざされた空間ではなく、街という拡がりゆく空間のなかで繰り広げられることで、他者からの影響を受け、当人の意図せぬ結末へとたどり着くところにある。それは、ラースの生き直しにとどまらず、同じく傷を負っていた兄であるとか、街の人々の生き直しにもつながるものである。一見幸せな家庭を築きつつあるように見える兄だって、実際には深く傷ついていたのだ。母を亡くし、同時に、精神的には父をも失い、自分を守るために弟を見捨てた自分・・・。「大人になるってどういうこと?」という率直なラースの問いかけに応えるなかで、兄はラースに謝るチャンスを与えられてもいる。だからこそ、彼は、ビアンカの葬式の場面で「弟を見直したよ」と語るのだ。

ラースの回復の物語を推し進めるのは、女たちの力だ。それは、従来どおりの物わかりの良い受容的なケアではない。ある意味で、もっとアグレッシブで、アサーティブな女たちのパワーだ。単に敵対的であったり、告発的であったりするものでもない。自己抑制的で繊細な男と、ユーモアに満ち、主体的な、力強い女たちによって、新しい関係性が開けていくといい。