今月のトピック by 村本邦子

2010年5月 カップルの関係と社会的ネットワーク

なんとなくネットワーク論を見ているが、ちょっと面白いものが眼にとまった。ずいぶん古い論文だが、エジザベス・ボット(1955)の「都市の家族〜夫婦役割と社会的ネットワーク」である(野沢慎司編・監訳『リーディングス・ネットワーク論〜家族・コミュニティ・社会関係資本』所収)。「ネットワーク」という用語の意味は、組織化された集団は、共通の目的、相互依存的な諸役割、独自の下位文化を持つ大きな全体のなかに個人が位置づけられるのに対して、集団の構成要素となる個人の一部のみが相互に社会関係を持っていることを指す。

この研究の結論を言ってしまえば、明確に性別役割分担を行っているカップルは、家族の外に高度に結合した社会的ネットワークを持っているのに対して、夫婦共同で家族を運営しているカップルは、分散したネットワークを持っているということである。男女の性別役割を前提としたカップルは、男には男の世界が、女には女の世界があると考えており、家族外で、男同士、女同士の密接な関係を結ぶ。友人・近隣・親類・同僚といった複数の役割が一人の人に重複しており、母と娘の絆は強く、女性同士の関係は濃密でサポートを提供しあっていた。逆に、性別役割を超えた夫婦では、近隣や親族とのネットワークは希薄で、夫婦共通の趣味や友人関係を持ち、ともに時間を共有し、夫婦の絆が強い。興味深いのは、性別役割分担型のカップルでは、セックスが重要な意味を持たず、共同役割型のカップルでは、セックス面でうまくいっていることが幸福のためにきわめて重要だった。

都市型家族は、相互につながりのない専門的に機能を果たす多数の機関との関係ネットワークのなかに存在しており、閉鎖的コミュニティの家族に比べると、高度に個化した存在だった。そのため、高度のプライバシーや自律性を持っており、自分たちの問題を自分たちで統御しやすい状況に置かれている。これは、現代の日本社会においても志向されているものだろう。あまりに単純化した物言いかもしれないけれども、これは、カップル関係に集中してたくさんのものを求め、それ以外のものとは機能的に関わるという印象を受ける。たしかに一理あるような気もする。つまり、生活や関心の多くをカップルで共有することと、家族の外に濃密な関わりを多く持つこととは、時間やエネルギーの配分から言って、相矛盾するわけだから。もちろん、このふたつのタイプの中間に、さまざまなバランスがあるわけだが、こう考えると、カップル至上主義には大きなリスクがあるようだ。 他方、DVカップルでは、性別役割分担と夫婦間でアンバランスな社会的ネットワークの持ち方があるということになるだろうか。もちろん、経済的アンバランスもある。

カップル関係の持ち方と、その他の社会的関係の持ち方に関連性があるとは、考えてみれば当たり前とも言えるけれど、意識してみるとおもしろいかもしれない。人は、ある程度まで、緊密に結合したネットワークのなかに生きる方が、足場は安定するような気がする。別の言葉で表せば、「コミュニティ」である。男女役割分担から自由なコミュニティのあり方を考えることは、ある種、チャレンジと言えるわけだ。