今月のトピック by 村本邦子

2007年7月 特別支援教育

 小学校のスクールカウンセラーをしている関係で、この間、特別支援教育についてかなり勉強した。今年の4月から学校教育法に特別支援教育が位置づけられ、特別支援教育推進の通知が出されたこともあり、スクールカウンセラーは支援体制に一定の役割を果たすことが求められる。一定程度、教育行政を理解しておかなければならない。

 とは言え、私自身は、ここ数年の「発達障害ブーム」を苦々しく思っているなかの一人だ。虐待ブームの次は、発達障害ブームかと少々、げんなりしている。もちろん、それらが重要でないと思っているわけではない。物事の本質まで届かないうちに、時代時代の興味関心でうわべだけをさらって、飽きれば新しい話題を探していくという社会のあり方に違和感を持つというだけのことだ。

 実際、いろんなケースを見聞きするなかで、「それって本当に障害の問題?」と疑問に持つことは少なくない。そもそも周囲の大人の関わりが悪くて子どもがSOSを出しているのに、問題行動を脳のせいにして、子どもを薬でコントロールしようなどというやり方は、暴力以外のなにものでもないと腹立たしく思う。まずは、環境によるものか、個性によるものかを見分ける力をつけたいものだ(もちろん、重複もある)。

そもそも、個性は脳の違いで表されるという。脳に損傷を受けた後、性格がまるで変わってしまったという報告は枚挙に暇がない。同じ脳を持つ人はひとりとしていない。脳の大雑把な特徴がマジョリティに属するか、マイノリティに属するかの問題だ。逆に言えば、現社会に生きやすい脳を持つかどうかという問題だ。自分自身を振り返っても、自分の身内や友人を思い浮かべても、みんなちょっと変わったところがあるし、違った脳のでこぼこがあるんだろうと思う(年を取ってからわかったことだが、私の空間認知のおかしさは努力でカバーできる範囲を越えている)。

 正規分布からはずれた人たちをどの程度まで社会が許容するかは、社会の器の問題である。器が小さくなればなるほど、正常外とされる人は増えていく。知能指数200の人は、50の人とともに、正常外、すなわち異常に属するわけだ。知人の子どもは、ミクロネシアの小さな島で育った子ども時代、まったくのびのび適応していたそうだが、アメリカ社会に戻るやいなやADHDと診断されたそうだ。現在、とても有能で個性的な援助者である。

 社会の器が小さく狭い場合、そこからはずれてしまった個性的な子どもたちを切り捨てるのでなく、きちんと教育を保障するために、この子たちの個性は障害によるものであり、特別な教育支援をしていきましょうというのが、この特別支援教育だが、内心、本末転倒ではないのか、社会の器を広げる方が大切でしょうという気がしないでもない。いずれにしても、器の小さな社会では、暫定的であっても、ないよりあった方が良いという類のものということになるだろう。

 関連書物は驚くほどたくさんでているが、私が気に入ってるのは、ナイランド著『ADHDへのナラティブ・アプローチ〜子どもと家族・支援者の新たな出発』(金剛出版)だ。原著は2000年に発刊された”Treating Huckleberry Finn”(『ハックルベリー・フィンを扱う』)で、注目していたら、いつの間にか翻訳が出ていた。タイトルの意味は、ハックが今のアメリカ社会にいれば、ADHDと診断され、リタリンを処方され、私たちは、ハックを失っていただろうという趣旨。

 繰り返すが、特別教育支援を否定することが私の意図ではない。どのような形であれ、個別の子どもたちのニーズに合った教育を提供するのは良いことだと思う。何であれ、障害という言葉なしに個性的な人たちが認められ、個別の対応をしてもらって、独創性に富む社会の有用な人材として受け入れられるようになってほしい。そもそも芸術家や専門家は、不特定多数の人とは違った関心や感性を持っているものではないだろうか。突出しているところがあれば、当然、抜けた部分もあるだろう。支援の発想としては、生きていくのに最低限、困らないように抜けた部分を補いつつ、突出を生かすということではないか。ハックを失わないために。