今月のトピック by 村本邦子

2007年5月 平和のための教育

 今月は、立て続けに、戦争と平和関連のワークショップに参加した。ひとつは、トランセンド研究会(平和的手段による紛争転換NGO)主催「アリシア・カベスード教授のワークショップ」、もうひとつは、立命館主催「こころと体で歴史を考える〜アジアの戦後世代が継承する戦争体験:プレイバックアシアター」だ。平和教育の歴史は決して浅くなく、敬意を表しているが、それでも、このところ急激に、感覚的にしっくりする催しが多くなってきたというのが実感である。プレイバックシアターもとっても良かったが、すでに日記に書いたので、ここでは、アリシアさんのワークショップのことを。

 アリシア・カベスードさんは、国連平和大学・エルサルバドル大学教授で、もともとは歴史学が専門。1960-1985年、アルゼンチンの独裁主義下において、高校で平和教育を行い続けたという信じがたい実践を行ってきた人だ。レジスタンスを志す教員たちが、授業中、さまざまな比喩を使って、政府を、独裁制を批判した。授業スタイルは、民主的な参加型。各学校に散らばっている教員たちの中には、管理職に呼び出され、クビを切られたものもいた。アリシアさんの勤めていた学校長は、「君たちが何をしようとしているかよくわかっているぞ。頑張れ。ただし、私がこう言ったことは決して口外しないように」と言ったという。こうして、管理職の暗黙の応援を得て独裁主義下で平和教育を続けた先生たちがいた。この運動は、ネットワークを通じて、中南米の他の国々に拡がり生き続けて、現在では国連の支援を受けているという。なんてすごい話なんだろう。

 ワークショップでは、中南米の歴史の概要もわかりやすく教えてもらったが、名づけるなら「エンパワメントの歴史学」とでも言うにふさわしいものだった。征服者による”His Story”ではなく、”Our Story”を語り直そうとしているように感じられた。たとえば、スペインやポルトガルによる植民地支配の歴史は不幸なものだったが、植民地支配という歴史を共有したことで、中南米はひとつになったという視点。あるいは、レジスタンスの歴史を中心に語ること。血なまぐさい歴史であっても、聞いている側に、正義の力がフツフツと沸いてくるような感じだ。

 フロアから質問が出た。あの頃(独裁制の終わり頃)、中南米にいた。何度かデモに出くわしたが、メキシコの「ディスアピア」(この事件は日本ではあまり知られていないが、映画「ジャスティス」を見ると、詳しい状況がわかる。私は、翻訳した『もっと上手に怒りたい〜怒りとスピリチュアリティの心理学』キャスリン・フィッシャー著に出てきて初めて知った。この本にも、母たちの力強いレジスタンスの事実が記されている)など怖ろしい状況だった。生命に危険はなかったのだろうか?と。

 アリシアさんは、さらっと当たり前のように、「レジスタンスは危険なものよ。それを選ぶかどうかはそれぞれの選択。あなたの自由」と言った。たいがい腹を括って生きているつもりの私でさえ、ギョッとした。この潔さはすごい。しかも、ちっとも肩肘はっておらず、すごいことを言っているとはまったく感じさせない。かっ、かっこいい。ワークショップのなかで、最近の若い男の子たちは右翼がかっこいいと言うということが話題に上っていたが、かっこよさを言うなら、レジスタンスの方だろう。

 アリシアさんは、教育は民主主義を拡大もすれば停滞させもすると言う。多くの社会で、教育とは「学校化」(schooling)と同義であり、学校教育は権利である。それは民主主義を拡大させると考えられているが、植民地下における学校は、人々のアイデンティティを計画的に毀損させるものに他ならない。グローバル化は、バリアを取り払い、強者の価値を優勢にする傾向を持つ。教育の背後には「文化的暴力」が潜んでおり、教育自体が構造的暴力を正当化してしまう可能性があることを忘れてはならないと言う。

 また、平和学習の構成要素として参加すること自体が自由の実践であり、対話によるコミュニケーションと決定への参加に民主主義のプロセスが含まれており、これが平和教育の主たる目的のひとつである。知るということは、知識や情報やデータを積み上げることではない。日常の中にある小さな物事が、地域的なもの、地球規模のものとリンクしているという理解のもとに捉えられるものである。また、知るということは、批判的に物事を考えることを学ぶことであり、関係を築き、リンクを創り出すことであると言う。

 平和教育って、なんてパワフルなんだろう。必ずしも重苦しい戦争についての学習ばかりではない(もちろん、事実を知ることは重要だ)。そして、私が日々、努力していることも、もしかしたら、すでに十分、平和教育かも・・・と思えて、なんだかエンパワーされた一日だった。