スタッフエッセイ 2013年11月

「違い」のままに

おだゆうこ

「帰ってきたら、出すものをだして、まずすることをする。それから自分の好きな時間。」一応、そう子どもたちに言っている。次女は、ぱぱっとこなし自分の好きなことをやるタイプだが、長女は実にマイペースだ。一緒に決めた生活の流れも、その時の気分や気になることによって、寄り道したり、やり始めるペースもほんと〜にのんびりしていて、どうしても「早く〜」「帰ったらまずなにするの?」と手も口もだしたくなる。年子の姉妹だが、性格も容姿も好き嫌いも全然似ていない。そんな二人を比べても何にもならないし、誰の為にもならないことだとわかっているのに、つい、「次女はもう済ませてるのに」と比較してしまうことがある。そういう時にかえってくる言葉は「人と人は違うから!」という長女の決め台詞だ。確かに…それは言われるとその通りですと我に返らせてもらう想いだ。

自分自身の育ちの中でもそうであるが、心理臨床の世界に身を置きだしてからはことさら、周囲と自分の中の比べ癖とむきあってきたつもりであるが・・・まだまだである。

ここ数年、多数派を基準とする「皆と同じであれ」という刷り込みに自分なりに抵抗してきたつもりだ。集団生活を維持意し動かしていくためには、個をなくし皆(集団)となることが正常であり、集団に溶け込めない(皆とおなじようにできない)のは異常であるという発想は未だ根強く、学校文化の中でいやと言うほど体験してきた。それは多数派に少数派は吸収されることであり、どちらにとっても自分らしさを奪われることである。「郷に入れば郷に従え」という諺は日本人の心得のように扱われてきたが、これらは日本の同化政策(植民地支配)思想他ならないということを去年の年報22号「いま、家族を問う」に学んだ。

「人は同じはずである」「一つになれる」というのは、作られた幻想ではないか。考えてみると人と向き合い、相手を自分を知っていくということは、「違い」に気付くということではないだろうか。

私は基本的には自分と似ているところやその人のよい所をみて人とつながっていきたいと思ってきた。入り口として親しみやすさや部分的な連携においてはそれもいいとおもっているが、本当に人を理解したいと思う時、よい仕事をやっていきたいとおもうとき、その人らしさ(独自性、特性)に出会っていく必要がある。それは、いかに自分と同じかだけではなく、いかに自分と違うかということに目をそむけず、それと向き合い、違いは違いのままに認めあっていくことであるようにおもう。それが、同化の道ではなく、相手も私も活かされる共生の道ではないだろうか。

しかし、違いを違いのままに認めるというのはなかなか大変なことである。違いに気付いた瞬間、同化してしまいたくなる気持ちが働くのもまた人であるからだ。

自分が正しいと思う方へ、また自分がやっているように・・・相手に求めたくなる。その欲望にまけてしまわず、違いを大事にしながら、自分らしさとその人らしさを大事にしていきたいと日々格闘中である。

(2013年11月)