スタッフエッセイ 2012年12月

いのちのバトンを受け継いで

おだゆうこ

今年の夏、一番下の孫としてかわいがってもらった九州の祖母が他界した。私の60歳上で大正生まれの祖母は、昔からきっぷうがよく、面倒見のいい人だったそうだ。戦中を生きた祖母は、港から戦争にゆく人たちや伴侶と別れて悲嘆にくれている人達にご飯をふるまったり、泊めたりしてきたし、戦後生まれの母の友達のほとんどは、母が帰る前に家に上がり、おばあちゃんにご飯を食べさせてもらっていたそうだし、とにかくいろんな人が泊まったり、暮らしたりしていたという。

農家生まれの祖母は、このまま一生舎暮らしは嫌だと家出をし、好きになって結婚した人とは死に別れ、生きるために一代で秤屋を築いた夫の弟と子連れ再婚し、商売人の妻としてまた6人のきょうだいの母として家族や従業員の世話をしながらも、御稽古事や地域の活動にも熱心だったそうだ。時には、身内や従業員に分銅や機材を持ち逃げされたり、商売の浮き沈みの中で借金のとりの取り立てにあい、家財の一切を差し押さえられたりと波乱万丈な人生だったが、「山より大きな獅子は出ない」「この世のことはこの世でおさまる」というおばあちゃんの諺通り、腹を据えて自分の人生を全うした人だった様に思う。

私にとってのおばあちゃんは、優しくて、甘くで、豪快で、ゆったりとした時間を過ごせる居場所だった。母は実家の秤屋をキョウダイと受け継ぎ育休なく働いていたので、私は日中、母の実家であり職場でもあるおばあちゃんの家で過ごしていた。私の日課は、おばあちゃんとお仏壇にお水とお花と般若心経をあげて、お化粧をして(お出かけ準備)、買い物に行き、道中での立ち話につきあって、お昼ご飯を食べ、午後はお小遣いをもらっておやつを買いに行ったり、公園で友達と遊んだり、時には母の職場で仕事の真似事をした。3時になるとおばあちゃんとお風呂に入り、4時には母が迎えにくるという生活だった。

耳で覚えた祖母の般若心経はおばあちゃん流の抑揚と発声があり、初めて一般的な般若心経を聴いた時には驚きと違和感を覚えたものだ。それから、おばあちゃんがお出かけ前に出してくる大きな化粧箱と変身道具はこれまた興味深く…おしろいや紅、ブラシやリボン付のおしゃれネット帽子をおばあちゃんの隣に座ってのぞきこんでいると、おしろいをつけてくれたり、髪をとかしてくれたり、オロナインを手に塗りこんでくれた。

お昼ご飯には決まってミルクコーヒーに柔らかいパン。おばあちゃんは歯が悪いからと、ミルクコーヒーにパンを浸して食べているのを真似てみたり、お小遣いで駄菓子を買ったり、オロナミンCやロリエースというヤクルトのようなもの、チューチュー(チューペツトアイス)を毎日のようにもらった。家ではお行儀悪いからとか、体に悪いからとか、ぽっちゃり体系だった私には禁止されていた炭酸や糖類たっぷりの飲み物や食べ物を、私はおばあちゃんに補給してもらっていた(笑)。甘いものをもらって、甘やかせてもらって、無条件の愛情をもらっていたようにも思う。

それもそのはず、私の味覚はおふくろの味というよりは、おばあちゃんの味だ。
あまい甘〜い卵焼きに、柿はジュクジュクに熟したものを流し台でかぶりつき、スイカは味塩をふりかけて種を箸でとってから豪快にかぶりつくのが作法。そして、その皮は床付けに。ガス炊き炊飯器にこびりついたおこげは、お醤油をちゅっーとまわしかけて一握り、アツアツの内に頬ばるべし!イカの塩辛は秘伝の味で秤屋を辞めてイカの塩辛を売り出そうかと言う話がでていたほどであった。それもそのはず、全国津々浦々の塩辛を食したが、おばあちゃんのイカの塩辛よりおいしいものを私は今まで食べたことがない。

お風呂好きもおばあちゃんの影響だ。お風呂は明るいうちに、ご飯の前に入るべし。熱い湯船に入り100まで数えて温まること。背中を流す時は、柔らかくなった亀の子たわしで、まずは真ん中を縦に一本すっーと両手でこする。それから両脇をこすり、最後は再び真ん中をすーっとこすって終えるのがお風呂の作法。どんなに遅くなっても、まずはお風呂に入ってご飯を食べたいし、湯船は熱め、背中はできれば誰かに洗ってほしいのは、小さいころから体にしみ込んだものなのだ。

寝る時には必ず昔話や手遊び歌をうたってくれた。中でも印象的だったのは、「♪眉毛の殿様が、妾を連れて花見にいったら、・・・」と眉から目、鼻を辿りながら全身にふれる手遊び歌。妾という言葉の真意を知ったのは、祖母が亡くなる最中に執筆をしていた年報「国際結婚」の歴史からであった。大正生まれの祖母にとって妾という言葉はなじみ深いものだったのだろうか・・・そんな私が大人になって国際結婚をすることになった時、母は祖母にどう伝えようかと苦悩していたのだが、そんな母の心配をよそに祖母は「裕ちゃんが幸せになるなら世界中どの国の人でもいい」といったそうだ。裕ちゃんを幸せにしてくれるではなく、「裕ちゃんが幸せになるなら」と言ったところに私は時代に翻弄されない祖母らしさと、祖母の愛情と誇りを感じ、大事に胸にしまっている言葉だ。

お盆帰省で会えずして一人で眠りながら旅立ってしまったこと、もちろんお通夜も葬式も参列したが、どこかおばあちゃんがいなくなったことを受けいれがたかった・・・。

しかし最近、ふと『おばあちゃんは、私の中で、そして子どもたちへと命のバトンを受け継で生いきているんじゃないか』と思った。

お節介で悩んでいる人をほっとけないところ、色んな人たちを家に呼んで、食べたり泊まったりしてもらっているところはおばあちゃん譲りだったのか?!食べ物の嗜好やお風呂のこだわりにいたっては、私の生活や生き方にしっかりと浸透しているし、それは否応なしに子どもたちに伝えられている。「♪眉毛の殿様」(セリフは所々アレンジを加えているが…(笑)も眠るときにやって欲しいNO1の手遊び子守歌になっているし、目には見えない人間の力を超えた存在を感じ、手を合わせることで自分と向き合う習慣や、怒られた記憶はないが「親の意見と茄の花は千にひとつもあだはない」など幼児にはちんぷんかんぷんの諺で言い聞かせてくれたこと、おばあちゃんのエッセンスは私の中に生きていて、確実に伝承されていることに気付いた。

そして、それは私たちが大きな命を生きていることへの気づきであり、「私の命」ではなく、「大きな命」ということを初めて実感できた瞬間である。おばあちゃんがいてくれて、子どもたちがいてくれて気付くことができた「大きな命」を生きている実感を大事に、これから「私の命」を生きていくことになるであろう子どもたちに、こうした命のバトンをいかにして受け渡していくことができるだろうか・・・

子どもと出会う臨床現場で、何より大事に思うことは、しっかり甘やかせてもらうこと、無条件に甘やかせてくれる場所がどこかに、誰かに保障されること。それが、いろいろなことへの気づきとなり、成長の土台となるということ。しかし「甘え」というのは、なぜか学校現場でも施設でも、そして社会でも受け入れられない。「甘え」はなぜか一撃で切り捨てられてしまうのである。しっかり甘やかせてもらう経験を土台に、ライフサイクルの中で、大切な人と出会ったり、失ったりする中で、人は私の命ではなく、大きな命を生きていることに気付くことができるのではないだろうか・・・

自傷をせざるを得ない子どもたちに出会う時、彼・彼女たちは、どことも繋がっていない自分だけの命を生きていて、自分の体を傷つけることでなんとか生きようとしている切なさと痛々しさを感じる。そこに介入できるお節介があるとしたら、それはやっぱり、あなたの命はあなただけの命でできているのではなく、自分ひとりで生きているわけではない、あなたの命と私の命はつながっているという、途方もない命の原理だと思う。もちろんそんなことは言語化しないが、そういった原理に基づいているからこそ、あなたをほっておけないという気持ちになるし、「ごめんね」と言う気持ちにもなる。

おばあちゃんの命のバトンを受け継いで、子どもと共に生きることができている今だから実感することができた命の原理を、子どもたちへ縁あって出会っていける人たちへ、自分なりに伝えていくことができたらと願う。おばあちゃん、ありがとう。これからも見守っていてね。

(2012年12月)