スタッフエッセイ 2012年9月

「さよなら、お義母さん」

前村よう子

この夏、夫の母が彼岸の向こう岸へと旅立った。

今年の春先から義母は食欲が無くなり、やがて経口では何も食べられなくなり、点滴によって栄養を取るようになった。義母がお世話になっていたグループホームでは、十分な医療ケアを受けることはできない。点滴の度に義姉がパートを休み病院への付き添いを担当してくれた。やがて、施設からは【胃瘻】を勧められるようになった。点滴ではなく、直接胃につないだ管に栄養を入れる方法である。胃がんの手術によって既に胃を全摘している義母には胃瘻ができない。もし実施するとすれば【腸瘻】となる。腸に管を直接つないでの栄養補給。管をつなぐ手術も必要だし、腸瘻の管が癒着するなどの恐れも出てくる。

そうこうしている内に、グループホームからの退去を勧められた。「医療ケアが可能なホーム」への移転を打診されたのだ。胃瘻や腸瘻に依らず、あくまでも点滴によるケアを実施してくれるホームを探した。けれどそいういった施設には、入りたい人が行列を成していて、すぐには移転できない。医療ケアも可能な介護マンションならすぐに移転可能とのことで、早速契約。義母の荷物を先に引越し、義母を介護マンションに連れて入ってすぐに、その介護マンションが救急契約を結んでいる病院へ救急車で運ばれた。熱が38度以上も出たからだ。

そのまま約1ヶ月の入院の後、義母は旅立った。8月のとある日、「熱が下がりません。肺にも水がたまった状態が常態化しています。尿もずっと詰まっています。危険な状態なので、ご親族はお集まり下さい」と病院から連絡が入った。平日だったが、姉一家とうちの3人が仕事をキャンセルして集合した。もう意識はなかった。その日の夕方、義母は静かに息を引き取った。

あれから一ヶ月半、もうすぐ四十九日を迎える。

今思えば、義母は絶妙なタイミングで旅立ってくれたようだ。認知症が進んで息子や娘の顔を忘れて、それでもずっと覚えていた孫のことを義母は守ってくれたのかなと思えるタイミングだった。

前回のエッセイで書いたが、中学校教員となった娘は、学校が夏休み期間になっても相変わらず毎日仕事の日々だった。勤務が休みのはずの土日もずっと部活顧問としての仕事が続く。そんな中で、肉体的にも精神的にもギリギリ、ボロボロだった。義母の危篤が、娘にとっては水戸黄門の印籠になったようだ。危篤の知らせで臨時休暇はあっさりと取れ、そのまま忌引きへと突入したことで娘は「自分が休んでも、学校も部活も何とかなるものだ。身体と心を休めるって、こんなに大切なんだ」ということを実感できた。義母は自身の最期に、孫を救ってくれたのだと思う。

四十九日が終わっても、お墓の引越や納骨など、まだまだやるべきことは目白押し。こうして忙しくすることで、少しずつ悼む作業ができるんだなと再認識するこの頃だ。さようなら、お義母さん!

(2012年9月)