スタッフエッセイ 2012年7月

家族って?

渡邉佳代

毎年この時期は、研究所スタッフの年報執筆の仕上げの時期であり、今年も最終追い込みに四苦八苦している。毎年、年報のテーマを決めて、スタッフそれぞれがトピックを選ぶのであるが、今年のテーマは「家族」を見直すことである。昨年の東北の震災以降、「絆」や「家族」の大切さがより強調されて取り上げられるようになった。研究所でも設立以降、子どもと女性の視点に立って、家族への支援に取り組んできたわけだが、この機会に改めて「家族って何だろう?」と見直すと、それぞれに家族の捉え方、イメージ、期待する役割や機能が異なっていて、春の恒例の宿泊研修では大いに盛り上がった(と同時に、皆、論文をどうまとめるかに四苦八苦するわけだが…汗)。

平成19年に内閣府がまとめた国民生活白書では、テーマを「家族・地域・職場でのつながり」として取り上げ、「つながり」の現状、過去からの変化、その影響などについて分析されている。第1章では「家族のつながり」が取り上げられ、人々にとって家族とは何か、どこまでの範囲が「家族」として定義されているのか、そして家族の役割について触れられていることが興味深い。「家族」の意識はモニター調査によると、同居している親族については「配偶者」と答えた人が最も多く、次いで「子ども」「親」となっている。別居している親族については、「親」「子ども」「きょうだい」「配偶者」の順であった。家族に求める機能としては、「休息・やすらぎを得ること」、「子どもを生み育てること」、「相互扶助(ケア役割)」が挙げられている。

自分を振り返った時、改めて自分はマジョリティではないと感じる。そもそも家族とは、何を指し、何が求められるのだろうか。今回の年報のテーマが「家族」になった時、私は2004年に公開されたスタジオジブリの『ハウルの動く城』を思い出していた。荒れ地の魔女の呪いで90歳にされたソフィーと魔法使いのハウル、その弟子の小さなマルクル、火の悪魔のカルシファーたちが、動く城を中心として「家族」になっていくさまが描かれているように当時の私は感じていた。当時の私はハウルたちを「疑似家族」と呼んでいたように思う。血のつながりはないけど、あったかくて楽しそうな家族になったなと、すっかり魔法が抜けてかわいくなった荒れ地の魔女を加えたラストシーンを見て感じたことだ。

私自身、「自分の家族は誰か」と考えた時、クエスチョン・マークが頭を飛び交ってしまう。確かに幼い頃は、父、母、私、弟…というように、同居している者を「家族」と捉えていた。大学から家を出て1人暮らしを始めても下宿先は仮の住まいで、家族は幼い頃と同様に父、母、私、弟という意識があり、それは両親も同様に捉えていたように思う。弟が結婚して弟夫婦が両親と同居し、姪や甥たちが生まれ、実家も様変わりした。私自身、実家を出て16年が経つ。その間に京都・大阪で働き始めて「結婚」し、自分たちの住まいを持ち、実家や「家族」に対する意識も随分変化した。私が「結婚」することで、両親の意識も随分変わった。

そして私にとって、この「結婚」が曲者で、今となってはただ「世間知らずでした…」としか言いようがないものである。私が親しい人たちに対して、「結婚します」と宣言したのは4年以上前だ。だが、特に強い主張があったわけではないが、今も入籍しているわけでもなく、式を挙げるわけでもなく、子どももいない。最初から入籍しないと決めていたわけではないが、一緒に住まいを購入したり、生活するにあたって特に不都合がないのであれば、このままで良いだろうという成り行きだった。両家の家族たちだけで、お披露目の食事会をして温泉に泊まった日を「結婚記念日」と呼んでいる。

だが、入籍をしないことで周囲の人たち、特に両親たちを困惑させてしまった。周囲の人たちに「渡邉さん、ひとりっ子なの?」「実家を継がないといけないの?」と尋ねられることもあったし、驚いたのは「せめて入籍しない理由を、今は働きたくて家事ができないからとか、子どもを産めない体なので夫の姓を名乗れないとか言わないと、親は納得しないよ」と、親切心(?)でいただいた数々の助言だった。そうした助言に対して、「周囲に夫婦であると認められる必要があるのか」という反発心も初めはあった。

だが、夫の姓を名乗ったり、親戚づきあいをしたりするのが嫌なわけではない。結婚したら「渡邉佳代」ではなくなることが、ある時から右利きを左利きに変えるように、不自然に感じたというのが入籍しない理由だった。それは周囲にとって不自然だったようで、今でも「渡邉」で名乗ると遠慮がちに理由を聞かれることが多い。結婚や夫婦というのは、あくまで社会の制度に則ったものであり、社会の規範による後ろ盾があって家族と認められるものなのだ…というのが、私の大きな発見だった。

私たちにとって、「結婚」とは何を指していたのだろう。随分悩み、苦しみもした。今でも答えが出ないので、夫とは「マジョリティとは異なることをしているのだから、せめて説明責任はあるよね」と話し合っている。夫も私に対して「家族」という意識はないが、互いにかけがえのない大切な存在であり、パートナーであるというのは一致した感じ方だ。だが、単におつきあいしているという関係でもなく、共に何かを担っているという感覚はある。私たちの関係や生活は、以前に私が『ハウルの動く城』を見た時に感じたように、「疑似家族」なのかもしれないと思うこともある。最近ではそれも悪くないとも思うが、私たちも年を経たり子どもが生まれることがあったら、また意識も変わるのかもしれない。

(2012年7月)