スタッフエッセイ 2012年1月

フルライフ

桑田道子

自然災害が想定外の出来事と発言した政治家もおり、そう公言できるのも問題だとは思うが、実際、2011年は、思いもよらない大きな被害を受け続けざるをえなかった方々も多くいるだろう。自然災害だけではなく、人災ともいうべき被害も大きく広がっている。あまりにも当たり前に、この国で、この土地で、この時代に生きているが、目を向けずに知らずにきたことが多いことにも改めて気づかされた。どこを見て、何を意識して、日々生きるか、そういったアンテナがぼんやりした暮らしのなかで、だんだん鈍っていくのかもしれない。

先日、何気なく目にしたアウトドア誌の一文に心動かされた。それは、野田知佑氏のマッケンジー川下りに憧れ(『北極海へ—あめんぼ号マッケンジーを下る』文藝春秋、1987)、同じ行程を辿り、出版された冒険家麻生弘毅氏による『マッケンジー彷徨』(ニ出版、2011)への野田氏の評である。
≪そして彼はある日、こう書く。
「ぼくはいま、間違いなく全力を振りしぼっている」

こういうことをいえる幸福な、又は幸福な人間はわれわれの周辺にあまりいない。
(中略)一本一本の指先まで持てる力を総動員して生きることを、極北の人達はフルライフと呼び、自分の日々の生活に誇りを持ち、体を張っている。≫

正直なところ、私自身の日々の暮らしは生き死にを身近に感じるシビアさはない。便利で快適なものに囲まれ、できる限り、居心地よく暮らしたいという志向性でもある。また、できれば、少ない力でより良い効果を得られる、省エネ的な生き方が効率よく合理的な生き方なのではないか、と考えるところもあった。しかし、持てる力、体力、知力、瞬発力、判断力、忍耐力、集中力、持久力…を総動員せざるを得ない環境に身をおき、ふんばっていくこと、それはとても大事なことで、それでこそ生きる、という意味があるのではないかと思った。ぼんやりとした平和のなかで得られる喜びと、過酷な環境のなかでフルに「生きて」得られる喜び。…自分基準ではあるが、キラキラした喜びを求める私がいる。

冒険の刺激を求めているわけではなく、日常の、この日々のなかで、私なりに一生懸命生きている瞬間、瞬間を積み重ね、大切にしていきたい。

この1年は、限りない哀しみとつらさ、先の見えない不安のなか、それを振り払い振り払いしながら動き続けてこられた方も多くいらっしゃると思う。被災地だけではなく、あらゆる場所に、苦しさや傷つきを感じ、うまくいかないことにめげたりしながら、もがきながらもなんとか生きようと頑張っておられる方も多くいらっしゃるだろう。きっと、そのフルライフが必ず自身を助け、満たし、生かしてくれ、また次の喜びへと導いてくれるものだと信じ、願っている。

(2012年1月)