スタッフエッセイ 2011年9月

この世にて

安田裕子

三十数年前,私はこの世に生を受けた。そして,あぁ…ちょっとお腹が空いたなとか,美味しいものが食べたいなと思ったり,早く仕事を片付けなくっちゃと考えている私が,今ここにいる。その一方で,この世のどこかで,終わろうとしているいのちがある。生死の分かれ目などというドラスティックなことでなくても,ある人は死を迎え,ある人は生きているという現実。人の生き死にというものは,とても不思議なものだと思う。

子どもの頃,死やあの世のことを,私はとても恐ろしく思っていた。そして,そんなふうに意識していたからなのかもしれないが,死やあの世について,人より深く考える子どもであったように思う。また,よく考えるためであろうか,しょっちゅう怖い夢をみてしまうので,眠りにつくのがとても怖かった。こんなことがずっと続くのだろうか,みんな怖くないのかなぁ,どうしているのかなぁ,生きていくのって結構大変だなぁなどと,あれこれ考えていた時期もあった。祖父母の家に遊びに行くと,仏壇がなんだかとても恐ろしくて,仏間に入るのが怖かったことをよく覚えている。

ただ,死やあの世に対するそうした恐ろしさは,年齢を重ねることで,ずいぶんと変化してきた。現在は,父方の仏壇が我が家にあり,今年のお盆などは,できるだけ仏間に居るようにしていた自分がいた。亡くなった祖父母が,なんだか大きな力をくれているような気になりながら。特に信心深いというわけではない。ただ,過去に抱いていた,死やあの世に対する恐れのような感情は,畏敬の念に変わってきたように思う。

最近,ローマの地を訪れる機会に恵まれた。その滞在の間に,カタコンベ(死者を葬る為に使われた地下の墓所)や4000体の骸骨が祀られた骸骨寺を訪れた。古人の生き死にが堆積するその場にたたずみ,生と死が繰り返されてきた歴史の脈々とした流れに思いを馳せながら,その場をともにした師と経験を共有することができたことがまた,死やあの世を,そして翻ってこの世に受けた自分の生のことを考えるのに,とても貴重な契機となった。

いつの時代でも,年若くして終えるいのちがあり,また,老衰で眠るように終わりをむかえるいのちがある。ただ,いつかは果てるいのちである,ともいえる。中山(1995)は,そもそも人間は,生と死という2つの連続する世界を移動する存在であり,その移動が繰り返され循環するものであると考えられていた,と述べる。生まれてくる子どもは,「あの世」から「この世」に移動してくるもので,時には死によって「この世」から「あの世」に戻り,あるいはまた「一度戻ったあの世」から再生し「この世」にやってくるといった具合に,2つの世界を行き交うものなのであるという。

この世に生を受けた以上,いつかは最期をむかえる時がやってくる。とりわけ大切な人や親しい人との別れは,とても辛く,また寂しいものである。覚悟のできていない状態で大切な人の死に直面せざるを得ないことも,あるかもしれない。ただ,その最期のお別れをきちんとすることが,とても大事なことなのだろうと思う。そのために今できることはなにか。それはひとつに,自分が大切だと思うことを,ちゃんと大切にして行動していくことであると思う。言うは易く行うは難し,と言い訳をしないように。死やあの世のことを意識することで,今ある有限の生の輝きを明確に認識し,その生に—自分の生にも,他者の生にも—どう向き合っていけるのかを,きちんと考えていけるのではないかと,そんなふうに思う。

(2011年9月)