スタッフエッセイ 2011年7月

人生の折り返し地点で

村本邦子

まもなく50歳になる。多くの人は、40歳くらいを折り返し地点と置くようだが、願わくば百年生きたいと願っている私にとっては、50歳が人生の折り返し地点である。「50歳になるのって、どんな感じ?」と娘に聞かれて、「う〜ん、なんかいい感じ。円熟?味わい?」と答えたら、「へ〜、それって、素敵なことやな〜」と言われた。確かに。もちろん、日々いろいろあって、感情的には上がったり下がったり、笑ったり、怒ったり、不安になったり・・・と幾つになっても落ち着きなく気持ちは揺れ動いているのだが、それでも、全体的に自分を眺めてみれば、「ようやく大人になって貫禄でてきたかも!?」と思える。

年を取って衰えたと思うことはたくさんあるけれど(最近、一番困っているのは、蚊に刺されるとなかなか治らず、2週間ほどもかゆくて、思わず引っ掻いてしまうと、それが今度は傷になって1カ月ほども治らない。虫刺され跡は増える一方で、最近では、常にムヒを携帯している)、それでも、年を取ることに納得、というか満足しているので、50代になることが全然、嫌じゃない。これまで誕生日はあまり気にしてこなかったけど、今年は、何だか格別の思いでもって、わくわく楽しみなのだ。

一方で、いよいよ砂時計がひっくり返されるというのか、時間が逆行する予感はある。よく言われるように、人生の残り時間を数えるようになるというのに近いと思う。それだけに、残された時間を大切に使いたいという思いは強くなることだろう。人からは、「すでに十分やってきたんじゃないの!?」と言われてしまいそうだが、もっともっと自分本位に生きたいと思う。自分本位の意味は、眼先の利益ということではなくて、自分の人生にとってもっとも価値あるものを優先するということだ。一時的な情に流されたり、しがらみから何かを請け負ったり、断念したりすることなく、どんな状況にあっても、自分にとって何が一番大切なのかを見失わないということだ。

念のため、言い添えておきたいが、百歳まで到達できなかったとしても、それはそれで、それほど悔いはないような気もする。ずいぶんといろんなことをしてきたし、少なからぬ人たちが何がしか受け取ってくれて、命の継続性のようなものを信じることができるから。前にもどこかに書いたが、昔、国語の教科書に出ていた「ゆずり葉」という詩は、子どもの頃、どうしても好きになれなかったけれど、今となっては、とても共感する。「私たちは次世代に何もかも喜んで譲っていくよ」という詩である。もっとも、原発のことを考えると、決してそんなふうに美しく言えない罪悪感で一杯になるけれども。

そうは言っても、聖人になる予定は今のところないので、許される限り、人生を愉しむことを追求したい。自分が人生を愉しむことが誰かの何か善いことにつながっていくというような人生後半を送れたら嬉しい。

(2011年7月)