スタッフエッセイ 2011年7月

気持ちを大切に

安田裕子

あなたはどんな時に怒りを感じますか?

昨年度より、中学生〜大学生を対象に、怒りのコントロールについて伝える機会を得てきた。自らの怒りの表現とその対処法に関し、「感情」と「認知」と「行動」の循環的な有り様に焦点をあてて考えるものである。それぞれがそれぞれに、自らの怒りに引きつけて考えることを通じて、さまざまな気づきがあるようで、それがとても嬉しい。なかでも、「自分自身の怒りの行動に責任をもつ」ということについて、目から鱗だったと感想を述べる人は結構多い。そして、怒りのコントロールについて教え伝えることを通じて、私自身も、自らの感情のコントロールについて折に触れて考えるようになった。それがおもしろくもあり、また、ありがたくもある。

ついつい、「あの人が悪いから(私は怒っている)」だとか「あの人が僕を怒らせた」と、思ってしまいがちである。そこには、「あの人ならきっとわかってくれる」「あの人ならきっと・・・してくれるにちがいない」といった、「過剰な期待」や「べき思考」がさしはさまれていることがある。親しい間柄であったり、あるいは親しくなりたいと思っている相手には、なおさらそうした期待が高まってしまうのかもしれない。そして、必ずしもそうはふるまってくれない相手に対して、「どうしてやってくれないの?!」「そんな人だとは思わなかった!」と、怒りを感じてしまうのである。

しかし、実は、怒るという行動を選択しているのは「私」であり、選択しないでいることができるのも「私」なのである。それが、「自分自身の怒りの行動に責任をもつ」ことである。ならば、激情や思い込みのままに行動してしまうのではなく、自らの言動をコントロールしていこう、という発想につながっていく。自らの思考の癖や感情的な反応の有り様を知り、そこから連鎖的に表出してしまう言動を変えていこうとすることは、気持ちよく他者と関係を結ぶうえでの、また、自身のこころの健康と保つうえでの、重要な鍵であるように思う。

最近、友人のふるまいに対して、「なんだか残念だなぁ…」と思うことがあった。それは、自分が認識していたその人物像からは予想しえなかった言動に対する、裏切られたような怒りの気持ちであり、哀しみの感情であった。大切に思っている相手だからこそ、そう感じたのだと思う。そんな時の反応としては、私の場合、怒りや哀しみの感情を抑え込んで誤魔化してしまうことはあまりないが、やはり、少なからずこころが曇る。

しかしそこで、気持ちに揺さぶられる有り様から一歩進めて、「私、いま、哀しんでいるのね。あ、怒っているのかも」と、自分の残念に思う気持ちを、丁寧に客観的に捉え直そうとしてみた。すると、残念に思っている自分自身に対して、なんだか温かい気持ちが湧いてきた。さらには、「残念だ」と思うのは相手に対する私自身の過ぎた思い入れによるものではないか、という気づきがあった。そして、みんなそれぞれにいろいろ事情があるのだからね、と、相手を思いやる気持ちへとつながった。ここを起点に、相手とコミュニケーションをとることもできるだろう。このように、残念に思う気持ちをなしにしてしまうのではなく、また、むやみにマイナスの感情に浸ってしまうわけでもなく、自分の気持ちとして大切にすることで、自らの思考の癖を顧みることができ、また、相手の状況や立場を理解しようとする視点が芽生えた。こころの曇りがサッと晴れた気がした。

このところ、胸がキュンとしたり、胸にグッとくるような感動を覚えることが、なんだか多くあるように思う。嬉しかったり、楽しかったり、ありがたいなと思えることはよいのだけど、そうでないこと、つまり哀しみなどの感情も敏感に感じられたりするのが、ちょっと厄介でもあった。不用意に哀しみの気持ちに直面するのは、やっぱりつらくもある。しかし、感情のコントロールの観点からすれば、プラスの感情もマイナスの感情もすべて、自分自身にとって大切な気持ちなのである。ならば、感受性が鋭くなっていることはむしろ、自らを豊かにしうるよい機会であるといえるだろう。もちろん、状況によっては、扱い難い感情をいったん横に置いておくことが必要な時もある。しかし、怒りや哀しみの感情をすっかり切り捨ててしまうのではなく、自分自身の感じ方としてきちんと大切にし、感情へのコントロール感を保つことは、こころ健やかに生きていくうえで、また、他者とよりよい関係をむすぶうえで、とても大事なことである。自分自身が感じるさまざまな気持ちを大切にし、それらに向き合うことを通じて、新たに見えてくることが、そして新たに生み出される関係性が、きっとあるように思う。

(2011年7月)