スタッフエッセイ 2011年6月

みんなちがって、みんないい

おだゆうこ

「みんなちがって、みんないい。」詩人、金子みすずは『私と小鳥と鈴と』の中で詩っている。普段、私たちは、自分と鈴と小鳥を同列に比べることはあまりしないだろうが・・・。「みんなちがって、みんないい。」という感覚に共感する人たちは、近年増えているような気がする。私自身もそう思っている。が・・・ふと、そうでもない側面に気づくことがある。

私の中に、「こういう考えや振る舞いの方がいい!自分も周りもそうあってほしい」と思っている節がある。自分の価値観を良しとして、あわよくば、それを押し付けようとする側面である。

例えば、子育てをしていて、喜怒哀楽どれも大事に出せるのはいいことと思いつつも、何かあってもなくても、すぐにグズグズ・・・プンプン!泣き虫になったり、怒りん坊になったりされると「泣かずにお口でいってごらん」とか、「怒って言わないで、やさしく言ってみて」だの、一般的にも自分的にも受け入れやすい方法に行動を修正させようとする。どこかで「自分の価値観=一般的にも受け入れられやすい価値観」すなわち、「正しいこと」として、押し付けようとする節である。

夫に対しても、「なんでそんな言い方しかできひんの??」「もう少し肯定的な言い方や態度にならないかしら」と思うことがある。そのことを、上記の「正しい」論調でいくと、間違えなく夫婦喧嘩となる。

よくよく考え見ると、自分ではないんだから、考えや振る舞いが違っていて当たり前だし、皆が私の思う様になるはずがない。なっても困る(怖い)わけだ。当然ながら、ニコニコの我が子も、泣き虫&怒りん坊の我が子も、可愛いくて大切なのは同じである。一応夫も(笑)。

そして、学校や施設で仕事をしていて、支援に息詰まる時にも同じことが言える。
昨今、発達障害ぽいと言われる人たちが増えていて、相手の気持ちを考えずに発言したり、学校集団で必要最低限だと思われているルールが全く入らない子たちに対しても、上記の「正しいこと」論調でいくと、間違いなく対立構造となる。まして、援助的とはいえ力関係や多数派−少数派の構造から考えると、ともすると、排他的であり、少数派の人たちに疎外感を植え付けることになりかねない。

確かに、『そんな言い方をしなくてもいいやろう』と思う気持ちはわかるし、集団生活をするための一般的、社会的なルールであり、多くの人はそんなに抵抗なく受け入れられることが通じない時には、『どう接していいか困る』のも当然である。

ここで、分かれ道のポイントとなるのは、切り捨てたり、多数派に飲み込むのではなく、『悩むこともしくは、抱えること』ではないだろうか・・・。自分の価値観や一般常識と言われている物差しを見直せるか?ひとまず、横において、自分とは違う面を持つ、その人自身に目を向けることができるか?にかかっているように思う。『自分と違って当然だし、みんな同じであるはずはないよな』と思えることは、当たり前のようで、すごく大事な気がしている。

ところが、学校や施設、会社など、大きな集団、社会的規模になっていくと、当然のように同じであること、一つの目的に向かって、一つの方法論をとる・・・という方式ができあがってしまう。それを、免れる方法、違う方法論をとるためには、「〜病」「〜障害」というラべリングが必要となっている今日の社会的風潮を感じるのは私だけだろうか・・・。

「一般的な価値観でもって、多数派とは違う人を区別する形で、社会の中に受け入れる」そういう考えや方法が、少数派の人に、目には見えない疎外感を与えているのではないだろうか・・・。

学校や施設現場で働いていて、『別室や特別支援の対象(それだけではない少数派)の子どもたちにつきまとう疎外感は、私たちが気づかないうちに植え付けているのではないだろうか?』ふと、支援という名のもとに、「〜障害」「不登校」とかいう括りをつけて、支援の方向性を見出そうとしている自分自身に問い直したくなった。

表層的には多様性を認める社会へと変化してきたと思う。しかし、その認め方は・・・自分自身は・・・どうなのだろうか?もう一歩掘り下げて考えてみたいところだ。

感情のコントロールが難しかったり、時に自分や人を傷つけたり、いろいろありながら、抱えながら、みんな生きている。受け止めやすい肯定的な方法でコミュニケーションをとれるようになるのは、素敵なことだと思う。でも、やっぱり、色んな変化球があるから人生は面白いとも思う。

みんなちがって、みんないい。本当にそう思い、行動できるように。私を生きる上でも、心理士として働く上でも、社会や学校の風潮に流されず、自分自身と、そして、自分とは違う人との出会いを大事に、生きたいと思う今日この頃です。

(2011年6月)