スタッフエッセイ 2011年5月

人生の正午IV—流れを楽しむ

窪田 容子

真っ白なキャンバスに、どのようにでも自分の人生は描けるのだと意識したのは15歳の頃。人生という川の流れに流されるのではなく、自分でオールを持ち、自分の進みたい方向に漕いでいきたい、主体的に生きたいという思いが強かった。もちろん、後にはどのようにでも描けるわけではないことに気づいていくのだが・・・。

そんな私に、たまたま出会った人々や、たまたま出会った機会に、自分をゆだねてみたいという気持ちが生まれてきた。その時々の自分の気持ちにも、ふんわりと身をゆだねてみたい。川の流れに逆らわず、流れに乗って、流れることを楽しみたいと思うようになってきた。何かの結果を手に入れることや、そこまで最短距離でたどり着くことより、そのプロセスを大事にしたいと思うようにもなってきた。

学生の頃は、旅に出るのが好きだったが、ツアーで観光地を巡るような旅はしたことがない。現地に着いてから泊まるところを探し、いろんな国から来た人たちと同じ部屋に泊まったり、言葉が通じない地域の人たちと交わったり、少数民族の人の家に泊めてもらったりした。気が合えば、他の旅行者と一時期行動を共にした。その地域や人との交わりを楽しんだら、次の行き先を決め移動した。列車に3泊4日乗っていたこともあるが、車窓からの風景や、列車内での人との交わりも楽しかった。何よりも旅の途中で出くわすハプニングにはワクワクと心が躍った。

私にとって、旅のプロセスとは目的地に到達するための手段ではなかった。旅の目的地の方が、プロセスを楽しむための手段だったように思う。自分の生き方にも似たような価値の逆転が起きつつあるのか。

川でカヤックやラフティングを楽しむことがある。川の流れに乗りながら、ただ流されるのではなく、川の流れを読み、翻弄されることなく、オールを使いながら、川や川岸の景色を楽しみながら流れを下っていく。時には転覆することもある。釣り人に助けてもらったこともある。

流れると言えば受動的な印象を持たれるかもしれないが、私にとってはそうではない。流されるのではなく、流れてみるのだ。手にはちゃんとオールを握っていよう。水の流れが激しくなったら、ちょっと岸にあがって流れが変わるのを待っていよう。ガンガン漕ぎたくなったらそうしてもいい。

流れてみようと思うためには、いざとなれば自分で舵取りができるという、いくらかの自信の裏打ちがあることが大切なかもしれない。ときに転覆し、しばし漂い、誰かの手を借りても、また進み続けられるならそれでいい。

どこにたどり着くのかは分からない。いや、どこにたどり着くのかは私にとって重要なことではないのかもしれない。どこにたどり着くのかより、どうやってたどり着いたのかの方が、今の私には大事なことのように思う。最終的にたどり着く先にあるのは誰にとっても死なのだし。

出会いや機会を大切に、自分の気持ちを大切にしながら、しばし人生の流れを楽しんでみたい。

(2011年5月)