スタッフエッセイ 2011年5月

「老い」なのか、「年を重ねている」だけなのか

前村よう子

40代も半ばを過ぎ、50歳に手が届く範囲まで来てしまった。「老いる」という言い方がなんとなくイヤで、「年を重ねている」と表現しているが、最近、「いやいや、やっぱり老いているんじゃなかろうか」と自覚することが最近増えてきた。

たとえばこのエッセイ。2週間前まではしっかりと締め切りを覚えていた。1週間前もそうだった。数日前までは「書かなきゃ」と思っていた。なのに、締め切り日にはすっかり忘れきっていた。そして締め切りを過ぎて2日経った時、他のスタッフからの締め切りを促すメールで、やっと気付いた次第だ。

情けないなと思う。エッセイの締め切りに限らず、娘と映画に行く約束を忘れてしまったり、帰宅したらすぐに持って行くつもりで玄関先にクリーニング用の服を出しておきながら、一週間近く出しに行くのを忘れてしまったり。確実に物忘れは進行している気がする。

もの忘れだけではない。創造分野でも確実に老いていると思う。文章を書くのに時間がかかるようになった。研究所で年報やニュースレター等の文章を書き始めた20代の頃や、どんどん書きたい内容が広がっていった30代の頃は、書くという作業が苦にならなかった気がする。自分でもビックリするくらい、どんどん文章が頭に浮かび、私はそれをただひたすら書いてきただけという感じだった。

ところが今は、ほんの400字の原稿を書くのに四苦八苦している。一度書いてみても、どこかで見た文章だなと調べてみると、数ヶ月前や数年前に同じような文章を書いていたと気付き、書き直したこともある。短い文章でもそうなのだから、ある程度の内容と分量を必要とする年報の原稿となると、第一稿から最終稿に至るまで、毎回、産みの苦しみを味わっている。

このように自分の頭の中が枯渇していくのを実感すると、どうしても「年を重ねている」という表現を自分に対して使うのが恥ずかしくなり、「老いる」が妥当だなと納得してしまうのだ。

でも老いを言い訳にせず、忘れてはならないことはしっかりと自覚しなくてはいけないな。忘れた場合に備えての、2次的、3次的な方策もとっておかねば。あー、ホントに老いたものだ。

(2011年5月)