スタッフエッセイ 2011年3月

祈り〜私たちにできること

下地久美子

3月11日に起こった東日本大震災以降、日本中が深い哀しみに包まれている。16年前の阪神大震災のときには、自分が生きている間にもうこれ以上の地震が起きることはないだろうと思っていたが、それをはるかに上回る事態に、なす術もなく立ち尽くすような思いだ。

一瞬にして家や家族を失い、夢や希望を絶たれた人々の悲しみや苦しみを思うと、どんな励ましの言葉もただ空しく、何も言えなくなってしまう。毎日のようにテレビから流される避難所の様子も、どれほど不自由な生活であろうかと心が痛む。場所によっては、水や食料も十分でなく、最低限の生活もままならないと聞く。大人が生きているだけでも精一杯な状況の中で、子どもたちは優しい言葉をかけられているのだろうか、抱きしめられているのだろうか。お年寄りや体の弱い人たちは、声を出せているのだろうか。余震が続く中では、ゆっくりと眠ることもできないだろう。明日の見えない日々はどれほど心細いものだろう。思えば思うほどやりきれない気持ちでいっぱいになる。

だからこそ、震災から2週間が過ぎ、各地で募金活動が活発におこなわれ、東北の人々のために何かできないかと立ち上がる人たちの姿にはとても温かいものを感じる。少しでも力になりたいとボランティアをする学生、お小遣いを寄付する子ども、節電を心がける主婦など。これまでなんとなくバラバラで結びつきの弱くなっていた人々の気持ちがひとつになって、被災した人や被災地の復興のために役立ちたいと思うのは純粋に素晴らしいことだと思う。私自身も、現地に駆けつけることはとてもできないけれど、今できることをしていきたいし、自分に何ができるのだろうと、心に問いかけている。

もちろん被災地のために、できるだけのことをするというのは大切なことであるが、同時に自分自身のことをなおざりにしてはいけないと思っている。震災後、カウンセリングの中で地震の話題が出ないときはなく、「地震のことを思えば私の悩みなんてたいしたことないんですが・・・」と前置きされることが多い。でも、それは違うと思う。個人の悩みが大きな災害と比較されてはいけないし、被災地の人を思って個人の楽しみを自粛することもない。力をあわせて頑張ることも大事だが、一方で、全員が同じ方を向いていなくてはいけないと思わされることの危険を感じる。隣の人を見て行動するのではなく、自分の気持ちに正直に行動することを非難されない世の中であってほしいし、そうじゃなくなることは、ある意味、原発の事故よりも恐ろしいと、私は思う。

まだまだ遠い道のりである。被災した人々が笑って暮らせるようになるにはどれほどの時間がかかるのか、予想もつかない。それでも、いくつもの困難を乗り越えた先に、希望があることを願ってやまない。

最後になりましたが、このたびの東北地方太平洋沖地震により、犠牲となられました方々のご冥福をお祈りいたしますと共に、被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。

(2011年3月)