スタッフエッセイ 2010年7月

他者の他者として

安田裕子

「あなたはどういうことに傷つきますか?」 あるカードゲームで、こんな質問にあたった。このカードゲームでは、複数人で輪になって座り、裏返したカードの束を中央に置き、順番に一枚ずつメンバーがカードをめくる。一枚のカードにひとつの質問が書かれており、その質問に回答するというかたちゲームが進められる。どの質問にも正解はなく、また、話された内容について、他のメンバーは、批判はもちろん意見もしない。たとえ言いたいことがあってもじっと聞くのみ。こうした安全が確保された場で、多様な語りが自由に生み出される。普段とりたてて考えないようなことに思いを馳せたり、雑感を言葉にしたり、人それぞれの考えを知るきっかけづくりにもなる。

どういうことに傷ついたか?思えば結構忘れている(笑)。少し悩んで一応答えたが、モヤモヤした思いが残り、ゲーム後も考えた。「人からの応答・反応がない時」。ひとつには、こう表現できるかな。でもちょっと受動的な表現だ。もう少し自分の関わりも含めた能動的な表現に言い換えができないかな。そして思いついたのは、「人に期待しすぎた時」。このように表現できるのではないかと思った。

期待は必ずしも悪いものではないだろう。ローゼンタールという心理学者が実験で「教師期待効果」というものを明らかにしたように、人は期待された通りに成果を出す傾向があるという、良い面もある。

ただ、大きな期待が寄せられると、しんどくもなる。「どうしてできないの?」「あなただったらできると思ったのに」。翻って人に期待する側として反省的に捉え直すると、それはつまるところ、相手に対して過剰な期待をし、自分勝手な思い込みと希望を投げかけ、それが期待通りにいかなかった時になにがしかのショックを受けるという、ひとり相撲的な構造が透けて見えてくる。つまり、自分の期待の程度が問題であることに気づく。親しい間柄でこそ、相手に期待してしまう面もあるのだろうが、期待が高じると毒になる。大切にしたい関係性すら危うくなる。改めて、難しいものだと思う。

最近読んだ本で深く印象に残った言葉に、「他者の他者としての自分」というものがある。確固たる同一の持続した自分がある、というのは幻想であり、自分は他者との関係性のなかでこそかたちづくられる、という考えである。他者もまた、自分との関係性のなかでかたちづくられる存在である。小さく壊れやすい<わたし>という存在が、<わたしたち>というつながりのなかで存在するのであり、そのつながりのためにいったいなにができるのか、その寄与のあり方をみずから模索することが必要だと、著者鷲田は述べる。

「傷つき」を自分に閉じられたものではなく、関係性のなかで考えるということ。ひどいわ、傷つくわ〜(泣)とセンチメンタルな感傷にひたるばかりではない有り様を、ひとつ学んだ。

(2010年7月)