スタッフエッセイ 2010年7月

大阪のおばちゃん考

下地久美子

『大阪のおばちゃん学』(PHP文庫)という、大阪のおばちゃんのことを真面目に分析した本を読んで、「うわぁ〜、私、めちゃ当てはまってるやん」と、嬉しいような悲しいような気分になった。飴は持ち歩いてないものの、駅で配っているティッシュは必ずもらうし、無料サンプルも大好き、ポイントカードで財布はぱんぱん、エスカレーターやムービングウォークでは必ず歩くなど、大阪のおばちゃん度チェックリストでも、堂々の中級と診断された。とはいえ、私は、大阪のおばちゃんが嫌いではない。元気で明るく、少々おせっかいだけど、憎めない存在といったところだろうか。

最近、これはなかなかの強者というおばちゃんを知った。息子の塾の英語の先生だ。初めてその塾にいった息子に「どうやった?」と聞くと、「なんかヒョウ柄のおばちゃんやったで」という。ヒョウ柄の塾の先生っていうのも、えらいワイルドやなぁ〜と思ったが、テレビに出てくる有名予備校のカリスマ講師というとド派手な人が多いもんなと変に納得した(その塾は、有名とは程遠い庶民的な塾だが・・・)。その後も、おばちゃん伝説が数々生まれた。ある日、「今日塾休みやって」と息子が帰ってきたので、理由を聞くと、「先生、祭りに行くねんて」というから、これもビックリした。どうやら先生は祭りや花火大会に目がないそうだ。もっともらしい理由をつければいいものを、なんて正直者なんだろうと、感心した。その先生からみれば、私なんて、まだまだヒヨコだと。お目にかかったことはないけれど、変に親近感を覚えてしまった。先生の名誉のために言うが、日頃は、すごく熱心で、試験前には、わざわざオリジナルの問題を作ってくださったり、面倒見がよく、おかげで英語嫌いな息子の成績も、メキメキとまでは言わないがそれなりに上がっている。

人間関係がドライになったとか、地域のコミュニティが失われたと言われるようになって久しい。よその家のことにはなるべく口を挟まないほうがいいという風潮は根強い。私自身、コンビニの前に溜まっている中学生がタバコを吸っていても注意する勇気はないし、子どもを怒鳴り散らしている母親に、声をかけることもできない。そういう時代であるから、大阪のおばちゃん的なものが、とても必要なのではないかと思う。以前、所長の村本が、電車に乗ってきた赤ちゃん連れのお母さんに、「いくつ?」などと声をかけるのが究極の子育て支援だと話していたのが、とても印象に残っている。確かに、電車や道端で気さくに声をかけているのは、おばちゃんぐらいだ。

経済的な背景もあるのかもしれないが、なんとなく世の中全体がギスギスしていて、自分さえよければいいという空気が蔓延している気がする。もし、近くに困ったときに助け合える人がいたり、悩みを聴いてくれる人がいれば、わざわざカウンセリングなんて受けなくてもすむのになと思うことがよくある。カウンセリングに来る若い人から「こんな暗い話を周りにしたら、嫌われますから」と言われることも多い。悩みや暗い話を打ち明けられるから、人とのつながりって深まるものじゃないのかなと思うが、そうではないらしい。常に明るくしていないと受け入れられない関係というのは淋しいものだ。どんなときでも味方になってくれるというおばちゃん的な守りが、だんだんと薄くなってきているのだろう。泥臭い付き合いというのは、スマートではないけれど、絶対的な安心感というのは得られる。マイナスな部分をさらけ出し、受け入れられてはじめて、自分の存在を認められる気がするのだ。

その点、大阪のおばちゃんは、ほめ上手でもある。先日も、スーパーでアルバイトをしている息子が髪を切っていくと、「お兄ちゃん、短い髪の毛、よう似合ってるわ」と、お客さんのおばちゃんに褒められたとニコニコして帰ってきた。そうやって、声をかけてもらうと嬉しいものだし、褒め言葉ならさらに気分がいい。

私も、安いものが好きとか、せっかちとか、表面的なことだけじゃなく、懐の深い本物の大阪のおばちゃんを目指していきたいものだ。

(2010年7月)