スタッフエッセイ 2010年4月

村上春樹『1Q84』を読んで・・・

下地久美子

先週の金曜日に、『1Q84』のBOOK3が発売された。BOOK2の結末が、とてもミステリアスであったために、物語がどう展開するのか気になり、さっそく手に取ってみた。

1984年。私は、小説の中でも象徴的に使われるジュンコシマダのスーツを着て、シャルルジョルダンのパンプスを履いて街を歩く典型的な大学生だった。世界は明るい未来に向けて開けていて、豊かさを享受していた。しかしその後、10年が過ぎ、阪神大震災が起こり、続いてオウムの地下鉄サリン事件が起こり、予測もできなかった薄闇が世界を覆った。もしかすると、この1984年は、知らず知らずのうちに、時が悪い方向へ流れていく分岐点だったのかもしれない。

『1Q84』は、目に付くトピックスはわかりやすく、物語の世界に、すっと入っていけるが、そこでは、光と影、善と悪、加害者と被害者などの対立する概念が複雑に絡み合い、時には反転しながら進んでいく。私は、この小説を親の愛情に恵まれなかった少年少女が、他者の愛を得て、生き延びる物語だととらえた。絶対的な悪も善もない世の中で、ただひとつ信じられるものがあるとすれば、それは「究極の愛」なのではないか。というのが、『1Q84』のテーマのひとつだろう。

BOOK1とBOOK2は、青豆と天吾の二人の主人公が、交互に登場する。青豆は、証人会という新興宗教の熱心な信者である両親に育てられ、その宗教を強要されたために、クラスで浮いた存在として、いじめの対象になる。一方、天吾は、幼少のときに母親と離別し、母親を知らないまま、NHKの集金人である父親に育てられる。小学校の同級生である二人には、親の守りが薄く、10歳以降に一人で生きていかなければならなかったという共通点がある。特に青豆にとっては、ちょうどその10歳のときに、誰もいない教室で、彼女が天吾の左手を強く握ったという経験が、この世に生きている根拠となるほどの深い愛情の記憶として刻まれている。その後二人は、20年間、一度も会うことなく生きていく。青豆は、スポーツインストラクターとして、天吾は、予備校の数学教師で作家志望の青年として、別々の人生を歩んできたが、青豆があるカルト教団のリーダー暗殺に関り、天吾がリーダーの娘のゴーストライターを務めたことで、現実と違う別の世界へ迷い込み、並行した二つの世界が、一つにつながってゆく。主軸は、青豆と天吾の揺るぎない純愛であるが、話はそれほど単純ではなく、もうひとつのテーマに、個人とシステムとの戦いがある。

このシステムに当たるのがDVやカルト教団に象徴される暴力が支配する世界なのであるが、さらに、それを包括するシステムとして、「リトル・ピープル」という目に見えない存在がある。私たちは、好むと好まざるに関らず、多くを考えないままシステムの中に生きている。ねじれや歪みに満ちた世界で、心の渇きは感じながらも、明日飢える心配がないために、システムに抗うことなく、淡々と日常を送っている。その影で恐ろしいことが起きつつあるのだということに気づいていない。青豆と天吾には、子どもの頃から抱えているシステムに対する不信があり、その奇妙さを敏感に感じ取れる。だから月が二つある世界を見ることができた。

不幸せな幼少時代を過ごした青豆と天吾ではあるが、その後の人生では、彼らを見守り、助けてくれる存在に恵まれ、最終的には、悪の手を逃れることができる。それに比べて、BOOK3から、主要人物となる牛河は、気の毒過ぎる。恵まれた裕福な家に生まれながら、その容貌があまりに醜かったために、家族からは存在しないものとして扱われ、努力して弁護士になるが仕事と家庭を失い、しがない調査員としていいように使われている。しかし、そのコンプレックスをバネにして、普通の人には感じられないことを感知する能力というのが磨かれている。

また、脇を固めるもう一人の人物、タマルも孤児院で育ち親を知らない。その過酷な生い立ちが、彼を強靭な精神を持ち主で、プロ中のプロという徹底した仕事をするアウトローに仕立てた。BOOK3では、第25章で牛河とタマルの対決があるが、「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」という、この章は、BOOK2第8章で、天吾と父親が対決する「そろそろ猫たちがやってくる時刻だ」に負けずとも劣らず、印象に残る。欠けているものは、別の能力を発達させることによって補完される。だから、けして不幸なだけではなく、より本質に近づける可能性がある。そして、父と母が、損なわれているがゆえに、青豆と天吾は、強く互いを求め合う。

『1Q84』を通じて、村上春樹は、道標が失われている混沌とした時代に、突出した形で現れる強いものたちに、何も考えずについて行ってしまう人々への警告を与え、信じられるものは自分の内にあることを伝えようとしたのではないかと、今の時点では考える。自分の人生に照らし合わせながら、読者によって様々な解釈ができるからこそ、この小説は、人々に受け入れられ、語られるのだろう。答えがないから、面白く、心の中に波紋が広がっていく。

「この世界はおそらくこの世界なりの脅威があり、危険が潜んでいるのだろう。そしてこの世界なりの多くの謎と矛盾に満ちているのだろう。行く先のわからない多くの暗い道を、私たちはこの先いくつも辿らなくてはならないかもしれない。しかしそれでもいい。かまわない。進んでそれを受け入れよう。私はもうここからどこにも行かない」という、青豆と天吾は、1984年に戻って、果たして幸せになれたのだろうか?

(2010年4月)