スタッフエッセイ 2010年1月

初風呂に思う

前村よう子

明けましておめでとうございます。
今年も無事、エッセイが書ける。書けることって幸せだなと感じる。書く場所があって、書きたい内容があって、何より、読んで下さる皆様がいらっしゃるからこそ、書けるのだ。

さて、今年の年始は自宅で迎えた。例年通り、紅白歌合戦の終了と共に夫は就寝し、私と娘はジャニーズ系のカウントダウン番組を見て、初風呂をゆったりと楽しんだ。

寒い季節であろうと、暑い季節であろうと、洗髪をしてお風呂にゆったり浸かると、何ともいえない幸せをしみじみ感じる。「なんて温かいのだろう」「スッキリ、サッパリ、なんて爽快なのだろう」そして、こんなに清潔でたっぷりのお湯に浸かることの贅沢さを感じずにはいられない。

いつから感じるようになったのか?
そう、あの日、1995年1月17日の阪神・淡路大震災の日からだ。

自宅周辺の揺れは、震度4〜5の間で、阪神・淡路地域で被災された方々とは比べものにもならないが、そんな揺れでも私はその時、死を意識した。「死ぬ瞬間っていうのはこれなのか。せめて家族が一緒に居る時で良かった」なんてことを、その刹那に思い浮かべたのを今も覚えている。

その後、年報『女性ライフサイクル研究 第5号』にも書いたように、個人的に、あるいは研究所スタッフとしてボランティアで被災地に通うようになった。被災地から大阪に戻り梅田駅で降りると、そこには別世界が広がっていた。食べ物も飲み物もふんだんにあり、綺麗に装った人々が行き交い、電気もガスも水道も当たり前のように通じている世界。まるで浦島太郎のように、毎回、違和感があった。そして、自宅に戻って、洗濯機を動かし、夕食の準備をするという、ごく普通の家事をしている最中にも、その違和感があった。違和感の極めつけがお風呂だった。

洗髪すること、お湯に浸かること等、全てに罪悪感というか、申し訳なさを感じていた。「今日、被災地で出会った方々は、こんな風に入浴を楽しむことなんてできないのに、私はこんな贅沢をしていていいのだろうか」という罪悪感だ。

罪悪感が感謝に変わったきっかけは、今、思い返しても分からない。ただ、ある日から「罪悪感に苛まれるより、温かい食事ができること、水洗トイレが使えること、好きなときに洗濯できること、そしてお風呂に入れることに感謝しよう」と思うようになった。

あれから15年。日常生活の中で、ともすれば当時の気持ちを忘れてしまうが、なぜか、初風呂の瞬間には思い出す。今年もそうだった。せっかく思い出したこの気持ち、しばらくは、お風呂だけでなく、日々の生活が続いていることを「有難いなぁ」と感じることにしよう。

(2010年1月)