スタッフエッセイ 2009年2月

母からのプレゼント

窪田容子

私が15歳のとき、両親は仕事の都合で家から車で6、7時間ほど離れた場所へと引っ越した。末っ子の私は一緒に来る?と聞かれたが、住み慣れた場所や、友達、姉と離れたくなかったので、行かないと言ったらすんなりと受け入れてくれた。そして、10代の姉妹3人の暮らしが始まった。

母は専業主婦で、私たちはそれまで家事の手伝いすらほとんどしていなかった。にもかかわらず、母は掃除や料理の方法を教えて行ったわけでもないし、親と暮らしていない事を、学校に伝えることもなかった。この子たちは何とかするだろうと思っていたのだろう。

私たちは暮らしながら、自分たちで料理当番、掃除当番、洗濯当番、お風呂当番、自治会の当番などを決め、暮らしやすくするためのいろいろなルールを作っていった。お弁当を作るのは面倒だったので持っていかないことが多く、高校の学食に行ったらよく姉と出会った。料理は、母に電話で作り方を聞いたり、本を見たりして適当に作った。洗濯物は山積み、家は散らかり放題、家計の使い方も何も言われなかったので、お金がなくなれば適当に銀行から引き出しては使っていた。

姉妹3人、いつも居間に集まっては何時間もおしゃべりを続けたものだ。何をしても自由で、親に知られたくないことは、共同戦線を張って秘密にした。だけど、母が私たちのことを信頼しきっていることは感じていたので、誰も大きく道を外すことはなかった。てんやわんやで、大変でもあったけど、自由で楽しく、子どもたちだけで暮らしていることに誇らしさも感じていた。

勉強をするようにと言う人もなく、塾や予備校にも通ったことがなく、学校もちょくちょく遅刻し、成績はどんどん落ちていった。高校1年が終わる頃にはいくつかの科目で落ちこぼれてついていけなくなり、分からない授業は退屈で、小説を読んだり、窓枠についたサナギを眺めたりして時間をつぶした。

大学受験の年、志望校を決めた頃、母と電話で話したときのことは印象深く覚えている。私が不安になって「落ちるかもよ」と言うと、母は「容子が落ちるわけないやん。お母さんが保証するわ」と明るく言った。母は私の成績のことはほとんど知らなかったので、私は「何の根拠があって、そんなこと言えんの〜?」と半ばあきれた。その一方で、その言葉にどこかで安心感も感じていた。母にそう言われて、私自身も「何とかなるやろう」という、何の根拠もない安心感を覚えた。

今も私は、この安心感に支えられている。母の言動の端々ににじみ出る「あなたは、大丈夫。やっていける」という思いは、暗示でもかけられたように私の中にしっかりと根付いた。困難にぶつかっても、落ち込んでも、将来に不安を覚えても、「どうにかなる。何とかなる。大丈夫」とどこかで感じている。母と同じように、何か根拠があるわけでもないのに、きっと大丈夫だと思っている自分がいる。そう思えることで、困難なことがあっても、楽天的に前向きに捉えて、乗り越えてこれたように思う。

母からもらった、大きな大きなプレゼント。使ってなくなることも、古びてしまうことも、壊れてしまうこともないプレゼント。「何とかなる。どうにかなる。きっと大丈夫」という感覚は、私を支えてくれる大切な宝物となった。

そして今、私がこの宝物をプレゼントすることができる。私の言動の端々には、おそらく「大丈夫だよ。きっと何となるよ。どうにかできるよ」という思いがにじみ出ているだろう。意識的にではないけれど、どこかで私はこの宝物を子どもたちに、そして、カウンセリングを通して出会う人たちにも、贈り続けているような気がする。人は、誰かに大丈夫と思ってもらえることで、本当に大丈夫になっていく。

(2009年2月)