スタッフエッセイ 2008年9月

強運の持ち主

下地久美子

 強運の持ち主として、真っ先に思い浮かぶのは、ズバリ母である。というのも、宝くじを買えば、1億円とはいかないが、ん万円が当たったことも1度や2度ではない。商店街の福引きも当たれば、お年玉付年賀はがきも、ふるさと小包ぐらいならしょっちゅうもらっている。私はと言えば、当たるといっても応募者全員プレゼントぐらいで、くじ運とはほとほと縁がない。母を見ていると、強運の持ち主とは、本当にいるもんだと感心し、私や妹の運を吸い取られているのではと、思わないでもない。
 
 母いわく「な〜んか当たっちゃうんよ〜」ということだが、それを横目に、「宝くじなんて当たったら、一生の運が逃げるって言うし・・・」と、負け惜しみを言うしかない私である。

 さて、人にはもって生まれた運があるかないかというと、「ついてる」「ついてない」は、実はないのではと、私は思っている。ある人は幸運に恵まれ、ある人は不運にばかり見舞われるというのは、あまりに不公平ではないか。どんなに努力しても報われないとか、やることなすこと裏目に出るという話も、よく耳にするが、もしかすると、それは、頑張る方向や方法が、ズレているのではという気がするのだ。

 例えば、運動音痴の私が、どんなに歯を食いしばって練習したところで、オリンピック選手にはなれないように、人にはそれぞれ得意分野や才能というのがある。それに気づいて、能力にあった形で職業を選んだり、人生の方向性を見つけていかないと、何をやってもうまくいかず失敗の連続となり、私って、なんでこんなに不運なんだろうと、運命を嘆くしかなくなってしまうように思う。

 巷には、「大きな夢を持とう」とか、「なりたい自分になろう」とか、耳ざわりのいいキャッチフレーズが溢れ、夢のない人は生きてる価値がないかのような錯覚を与えられる。これは、すごく危険なことではないだろうか。夢を見たり、理想の自分をイメージするのは、悪いことではないが、それが現実の自分からかけ離れていると、とうてい願いがかなうはずもなく、不全感に打ちのめされて、やる気が奪われていく。その結果、手に入れることができない飢餓感ばかりがあおられることになる。

 私が考える、幸せへの近道というのは、「少し努力すれば手が届くことをイメージすること」だ。それがうまくいけば、また、少し頑張ればかなうことを夢見る。そうやっていくうちに、上昇気流に乗って、うまく回っている感じが得られるのではないだろうか。

 大きい夢を見続けるより、小さい夢を一つずつかなえていくほうが、実のりは大きいということを信条としている私は、だから、宝くじは買わない。当たらない確率のほうが、ずっと高いからだ。そこで、強運の持ち主の母のことを考えると、のぼりを見たら宝くじを買い、懸賞はがきもこまめに出し、福引の半券をせっせと集めている。この小さな努力が、いつも何か当たっている感じにつながっているような気がする。最初から当たるわけないと手を出さない私と、「ハズレる感じがしない」と1億円を夢見る母とでは、宝くじにかける投資も情熱もちがうわけだ。運がいいや悪いというのは、はじめからないと思う。でも、「気」というのはあるのでは?というのが、これまで生きてきた実感だ。強く願ったり、念じるパワーというのはあって、それが、夢をかなえる原動力になっているように感じる。

 母は、もともと強運の持ち主というわけではなく、あり得ないことを信じることができるか、できないかが、私との差なのかなと。

 人生、一か八かの勝負に賭けるというギャンブラー体質の人というのは、ある意味、清々しくもある。が、負けたときは、痛い。失敗してもすぐに気持ちを切り替えられる人はいいが、私は、こういうダメージに弱い。だから、安全牌(ぱい)をコツコツ積み重ねていくのが性に合っている。大きな損もなければ得もないという平坦な生き方をつまらない感じる人もいるかもしれないが、そういうのも悪くない。そして、たまに幸運に恵まれればラッキーと思う、ささやかな幸せもある。

 世の中には、「大胆系」と「細心系」の2パターンの人がいるようだ。どっちがいいというのでもないが、両方の性質があって、時と場合によって、使い分けられると、いいよなぁ〜と思うのだが・・・。

 さて、あなたは、どちらのタイプですか?

(2008年9月)