スタッフエッセイ 2008年8月

満洲からのラヴレター

渡邉佳代

 お盆の終りに母方の93歳の祖母が亡くなった。私を含め、4人の孫たち、6人の曾孫たちがワイワイと集い、にぎやかで良い葬式だった。「きっと、じいちゃんがもういいよって連れて行ったんだね」と皆で言い合った。

 祖母は5年前に脳梗塞を起こし、言葉の不自由さを残しながらもリハビリを続け、2年前に2回目の脳梗塞を起こしてからは、ずっと意識がなく、寝たきりの状態だった。もともと祖母は心臓に持病があり、4人の祖父母の中でも、祖母は一番早くお迎えが来るかもしれないねと、私は母に言われて育ったが、なんと大正、昭和、平成とほぼ1世紀を生き抜き、一番長生きをした。

 思えば祖母は、私が私であることをずっと変わらずに応援してくれていた。私の故郷は田舎で、女は親の近くに嫁ぎ、子どもを産み育てるといった風潮が根強く残る地域だった。従兄弟たちや弟が結婚していく中で、私は何度も親戚から将来のことを心配されてきたが、祖母は脳梗塞で不自由になった言葉で「大丈夫!ばあちゃん、100歳まで!佳代、大丈夫!」と手を握ってくれたことを思い出す。

 祖母は私の幼い頃から、今の私があることを感じていたのかもしれない。「佳代は飛びすけだから、きっと遠くに暮らすかもしれないね。でも、佳代ならきっと大丈夫だよ」。“飛びすけ”とは、どうやら一所に落ち着かないとか、飛んで歩くとか、型通りに収まらないとか、そういった意味らしいが、そういう祖母もかなりの飛びすけだった。

 祖母は山形の旧家に生まれ、若い頃に母を亡くしている。15,6歳で単身東京に渡り、看護を学んで造幣局の養護職員となった。そこで警視庁に勤めていた祖父と知り合い、恋愛。戦争から祖父が戻ってくるのを東京で待ち、貧しい生まれの祖父と一緒になることを親戚から反対され、半ば勘当されながら結婚、祖父の故郷に渡った。母も語るのを嫌がるほどの貧しい時代を、小学校の養護教諭として働き続けながら、2人の子どもを育ててきた。

 若い頃の祖父母夫婦は喧嘩ばかりしていたという。母からは、家を飛び出した祖母が、菜の花畑で泣きながら月を見ていたという話を聞いてきた。身寄りのない、故郷から遠く離れた地で、祖母は何を思い、月を見上げていたのだろうか。貧しさを生き抜いてきた祖父と、お嬢様育ちの祖母、そして戦場から戻ってきた祖父と、帰還兵の弟を舞鶴まで迎えに行く際に「せっかくだから」と京都観光までした祖母との間には、大きな溝があったことは想像に難くない。

 それでも、孫の私から見る、晩年の祖父母夫婦はとても仲が良かった。祖父が亡くなった時に「じいちゃん、私もすぐ行くから、天国で隣の席を取っておいてね」と泣いていた祖母。「じいちゃん、ロマンチストだったのよ」と少女のように目をキラキラさせて、満州から祖父が書き綴ったラヴレターを見せてくれた祖母。私が歌謡曲を聞いて「ばあちゃんの顔の皺も、じいちゃんと作ってきた笑い皺なんかな」と言った時、祖父を恋しがって泣いた祖母。

 娘である母から見た祖父母夫婦と、孫である私から見た夫婦は当然違うだろうし、夫婦も年月を経て変わってきたものもある。そして、母と私で祖父母夫婦から受け取ってきたメッセージも異なるだろう。母は今回の式に参列できなかったが、祖母の2年に渡る入院生活、母自身の闘病生活を経て、祖父母夫婦への見方、祖母への思いも変わり、母も良い状態で祖母の死を迎えたようだ。

 祖父に「すぐ行くから」と言いながらも、祖父の死後19年を生き、その間、書道に短歌と生涯に渡ってチャレンジし続けた祖母だった。

“まっさらの半切を前に筆を取る 命たぎると思う瞬間”

 祖母が85歳の時の歌である。幼い頃から、フワフワしてはっちゃけたハイカラな祖母だと思っていたが、最近になってようやく理解できるようになった、祖母の情熱的で頑張り屋の一面がよく表れている。私も80を過ぎて、“命たぎる”と感じられるように生きられるだろうか。

 祖母が戦時中にどのように東京大空襲を生き抜き、祖父と再会し、祖父から満洲のどんな話を聞き、そして祖母がそれをどう感じたのかを結局聞けなかったことが悔やまれる。そこに、“フワフワばあちゃん”だけではない、激動の時代を生きてきた“命たぎる”祖母の生があり、祖母が応援してくれたように、私が私として生きていけるヒントがあるような気がしてならない。いつか、それを分かる時が来るのだろうか。今は、天国でじいちゃんの隣の席で、2人仲良くいることを祈りつつ。

(2008年8月)