スタッフエッセイ 2008年7月

ドラマの力

村本邦子

 「地獄のDecember〜哀しみの南京」を観た。期待を裏切らない舞台だった。前半と後半の二部に分かれ、前半では、ナレーターとともに、新聞記者、ミニー・ヴォートリン、渡辺さんと横井さんの「告白」などの声によって、歴史的事実、舞台の背景が与えられる。後半では、被害者と怨霊の声が、ストーリー性を持って私たちに迫り、「もう一度、生まれ変わりがあるのなら・・・幾重にもかけて・・・この罪と罰を、魂にきざみこみ、懺悔の生を生きてゆけたらと思う・・・。罪人の私、その罪をどう償うのか。地獄こそ、我が住家」と渡辺さんがきっぱりと言い放ち、幕が閉じられる。

 渡辺さん、横井さんにとって、繰り返し舞台を演じることは、トラウマの再演なのだと思った。演劇という形で再演することで、現実の再演を避けることができるし、うまく共感を得ることができれば、トラウマのシナリオは変容していくだろう。一緒に観た人たちの多くが、「最後が重すぎる。地獄には住めない・・・」という感想を漏らしたが、渡辺さんが地獄に住まざるを得ないのは、一人で背負うしかないからだ。私たちが、少しずつでも分かち合うことさえできれば、それはもっと軽くなるはずなのだ。ふと、若者たちの自傷や次々起こるおかしな事件は、歴史のトラウマの現実的な再演なのではないだろうかと思った。舞台の上での再演をみなで分かち合うことができれば、現実の再演は避けられるのではないだろうか。

 よくできた舞台だった。「こころとからだで歴史を考える会」の企画だったが、心と体だけでなく頭も使って向き合うことが求められた。そして、さまざまなところにいるさまざまな人々の視点、絶望と希望、さまざまな感情が惜しみなく散りばめられており、ひとつの事象をたくさんの角度から見つめることのできる構成だった。演劇とは、なんてパワフルなツールだろう。

 二日目の企画は、「プレイバックシアター〜こころとからだで考える歴史のトラウマ」。アルマンド・ボルカスさんをファシリテーターとするこのプレイバックシアターは、昨年も経験したが、素晴らしい手法だ。提供されたエピソードから、役者たちが、一人の人の心の中にあるさまざまな感情の声を注意深く聴きとって、それぞれに演じてくれる。あたかも、どの感情も無視されず、聴き取られる権利があるのだと言わんばかりに。人殺しとは、もしかしたら、自分の心のなかの声のどれかを殺すことから始まるのかもしれないと思った。自分の心のなかにあるすべての声を救うために、複数の他者が全身全霊で耳を傾け、共感しようと努力してくれること、そして、それをたくさんの人々に証人として見守ってもらうことは、どんなに大きな力になることか。

 折りしも、この二日の昼間の私の仕事は、毎年やっている芸術教育研究所の保育士研修で、ロールプレイを使うセッションをやった。即興でやってもらう寸劇を通して、現場から上がってきたたくさんの疑問に、私が答えるよりずっと説得力のあるだろう答えが見えてくる。同じ答えが提示されても、与えられた答えよりずっとよく身につくことだろう。
 
 三日目、四日目の企画は、「過去を共有し、未来を築くワークショップ〜アジアの戦後世代が継承する戦争体験」で、少人数のクローズトグループだった。ここで初めて、見るだけでなく、自分の感情を演じてもらう、自分が相手の感情を演じてみるということを経験した。自分の体験を受け取ってくれた相手が、懸命にそれを表現しようとしてくれる体験は、これまで経験したことのない不思議な感じだった。私はいつでも自分の感情のすべてに責任を持つ努力をし続けてきたが、その責任を手放す感じ。おもしろいことに、手放すことから見えてくるものがある。逆に、相手の感情を聴き取る努力をしたあと、体が演じるままに任せるというのも面白かった。プレイバックで見たときには、どうしてそんなことができるのか不思議だったが、意外とできるかもしれないと思えた経験でもあった。

 これまでも、多少はドラマセラピーを経験している。ひとつの有効な方法だとは思ってきたが、私自身に関しては、とくにドラマの力を借りなくても、自分の気持ちを扱うのに不自由を感じてはこなかった。ただし、この歴史のトラウマ、つまり個のレベルを超えた集合的トラウマを扱うには、ドラマの力がとても役に立つのだと感じた。今さらドラマセラピストにまではなれないが、部分的にちょこちょこ取り入れることはできるかも。そして、自分ももっともっと人の助けを借りていこうと思った。

(2008年7月)