スタッフエッセイ 2008年6月

遠く、遠く。

渡邉佳代

 今年の年報テーマ「世代を超えて受け継ぐもの」を執筆するにあたり、スタッフ課題である、親のライフヒストリーの聞き取りを行った。現在、母が闘病中なので、私は月一回、実家に帰っているのだが、母へのインタビューはしても、父には聞きにくいなぁと思っていた。

 母が入院してから、私と父はぶつかってばかりだった。母が元気な頃は、マイペースな父の愚痴を母から聞いては慰めていたのだが、いざ、母が倒れてもマイペースというか、不器用というか、無神経というか、母に優しい言葉をかけてやれない父にイライラしていた。それでも、母の見舞いに通うには父の車に乗せてもらわねばならず、病院帰りに私がしんみりしていても、「お父さんは寿司が食いたい」とかずけずけ言う。

 思えば、私も不安でいっぱいで、子どものように意地を張っていたのだろう。しんみりしている私を一向に解せず、一人で自分の仕事の話ばかりしている父に、もう返事なんかしてやらない!と決め込んだ時、車のラジオから聞き覚えのあるメロディが流れてきた。槇原敬之の「遠く遠く」だった。母が槇原敬之を好きなので、母の車ではいつも彼のテープが流れていた。この曲は母が一番好きなものだ。ふと気づくと父も黙り込んでおり、ぽつりと「懐かしい曲だな」と言った。お父さんも覚えていたんだ。少しだけ心が温かくなって、二人でしんみりとその曲を聴いた。

 そんなことがあってか、その晩、独り居間でテレビを見ていた私のところに父がやってきて、父の生い立ちから母と結婚するまでの話を聞くことができた。特に私から聞き出したわけではない。父も不思議がっていたが、今日は私に話したいのだと言う。今まで母を通して父の話を聞いてきたが、改めて父本人から聞くと、何故母と惹かれあい、結婚したのか、二人が必死で幸せな家庭を築きたいと願ってきた思いを感じられた。久しぶりに父と過ごす穏やかな時間だった。

 帰京してからしばらくして、私は自分の幼い頃を懐かしく思い出すようになった。父と母が共働きだったため、昼間は私が小学校を出るまで父方のおばあちゃんの家に預けられていた。おばあちゃんの家の前の銭湯、隣のポルノ映画館、大きな割烹料理屋、私が溝川に落ちた時に助けてくれた裏の豆腐屋さん、当たりクジのついた飴を夢中になって買った駄菓子屋さん、よく裏の厨房から覗いて遊んでいた喫茶店やスナック、近くのお稲荷さん(捨てられていたお稲荷さんの置物を持ちかえって、おばあちゃんに「返してこい」と怒られた)、お寺さん(これも何か置物を持ちかえって怒られた)、少し行けば鬱蒼とした森に囲まれた八幡さま(これも以下同文…)などなど、人々が生活する音と匂いのする街並み。どれもが父も幼い頃に慣れ親しみ、遊んだ場所だ。

 おばあちゃんの家は代々農家をしてきた古く大きな家で、敷地内にはいたずらをすると入れられた(でもめげずにいたずらした)土蔵、農具や脱穀機、コンバインを入れる小屋がいくつか、もみ殻を収める納屋(猫がたくさん住みついていた)などがひしめき合っていた。鶏や兎、雉なんかも飼っていたな。建物には表二階と裏二階があり、吹き抜けの囲炉裏の間、冬の間に豆炭を焼く釜戸の間、私も入ったことのない開かずの間なんてのもあったし、台所の一角は土間になっていて風呂が置かれ、そこでは年末に餅つきをした。

 裏二階に続く階段の裏には、叔母が幼い頃に描いた美智子さまご成婚の絵。裏二階の押し入れの奥には父の描いた侍の絵。いとこたちそれぞれの落書き。おもちゃ部屋なんてのもあり、代々いとこたちが子どもの頃に遊んだ古いおもちゃがあって異様に怖かった。今ではプレミアが付いているようなものもゴロゴロあったが、世代を超え、父たちきょうだいや、いとこたちとのつながりを感じさせる品々だ。

 思いがけず父の話を聞き、自分自身をも振り返った時、古くて懐かしく、あたたかい記憶や情景が鮮やかに蘇ってきた。今住んでいるところもそうだが、旅に出れば観光客向けの整った場所よりも、猥雑とした生活の匂いや音がする場所に惹かれるのも、こうしたものと私はどこかでつながっていたかったのだろう。何よりも、父とのつながりを感じていたかったのかもしれないとも思う。世代を超え、両親から受け継ぎ、自分の中で息づく正・負の遺産を意識化するには、もう少し時間をかけていこう。今は、月一回、帰省しながら、故郷や家族、自分のルーツをたどり、結び直していく時期を味わっていきたいと思う。父と私を結びつけた曲のように。

(2008年6月)