スタッフエッセイ 2008年1月

鳥と魚

長川歩美

 先日、背伸びをしてキッチンの上方の収納扉をあけたら、いい加減にしまっていた鍋のふたが落ちてきて、お気に入りのガラス製の急須にあたり、ちょうど口のところが欠けてしまった。つい2,3日前に、電子レンジのガラスのターンテーブルを割ったところだったので、そばにいた夫に「ごめん、またやっちゃった。」すると夫からは「形あるものはみんなこわれるんだから。」と思わぬやさしい反応が返ってきたのだけれど、なんとなく夫のこのひとことが心に残った。

 リビングの椅子にすわって周りを見渡すと、ひとつひとつ足でさがして、気に入って買い求めた家具や雑貨たち ― くじらのような形の大きなダイニングテーブル、乳白色のペンダントライト、ナチュラルカラーの木製円形コタツ、友人達にもらった赤いオーバル型のお鍋 ― しっかり安定してずっとここにこのままあるようだけど、そうか、形あるものはいつかみんなこわれるか風化してなくなってしまうんだ ― ひとつのこらず。わたしより早いか遅いかっていうだけなんだなぁ。ものだけじゃなくて、人もそう、わたしの知っている人はみんな、いつかいなくなってしまうんだ。わたしより早いか遅いかはあるものの。わたしもいつかいなくなる。・・そんなことを考えたのは初めてのことで、今、自分が地に足をつけているこの世界が、なんだかとても儚いものに思えて、さみしくなった。

 これから生きていく中で、わたしはこれまで出会っている大切な人たちと一人のこらず別れることになるのか―。なんとも重い気づきだ。ガラスの急須から話が飛躍していることを気にかけつつ、昨日まで無意識に過ごしていた時間を、もっと大切に過ごしたいと感じた。

 時間も命も流れている。どうもわたしは、いつかやろうと思ってことをためこんで、小さなストレスを積もらせて燃費の悪い生活をしてしまうところがある。・・読みたいけれど積んでいる本、今年こそ会いたいと毎年思う古い友人、書きそびれている手紙、溜め込んでいる事務仕事・・まるでいつか時間がとまって、それらのことを十分に出来る機会があるかのように錯覚している。時間には限りと流れがあるのだから、今やろうと思うことをリアルタイムでやりたいものだ。

 一方、生活のペースということでは、動物にチーターや馬もいればコアラやナマケモノがいるように(虫にもトンボもいればカタツムリがいるように)人もその人にあった時間の流れで生活することでその人らしさが活きてくるのだろうと思う。自分は動物でいうとどのあたりだろうか?ついナマケているペースでもなく、無理をして忙しくしているペースでもなく、本来の自分にあった時間の流れってどんなもんかしらん、と模索中・・。

 流れの中で生きることを大切に感じはじめると、必要以上に欲を出して貯めこむことや執着することの意味が薄れてくるように思える。得をすることより自分らしく生きることに本腰が入るというか。自分らしくというのがわかるようでわかりにくいが、先日読んでいた本のなかで「魚は水でおぼれない。鳥は宙を落ちない。神がつくりたもうた生物はみな、それ自身の本性に生きなければならない。どうして私が私の本性にそむくことができようか。」という内容の詩をみつけて、(魚と鳥が自分をカン違いして、お互い逆の場所で生きたら大変なことだ)と思ったのがヒントになる気がした。

 去年の秋に、北海道の昭和新山のふもとにある小さな熊牧場に立ち寄った。熊たちはコンクリートの深いプールの底のような狭い住み処で、うつろな表情で寝そべっているか、我先にと二本足で立ち上がり、自分のほうに餌を投げてもらえるようおどけたしぐさで人間を誘っている。昔からよく見かける鮭をくわえた木彫りの熊のような野性味はどこにもない。なんて不自然な世界。自らの本性から外れた生き方を強いられている熊たちに申し訳なさを感じつつ、せめて飼育員との毎日のコミュニケーションが豊かであってほしいと思った。

(2008年1月)