スタッフエッセイ 2007年12月

Slow boat to Nanjing

渡邉佳代

 11月末に、南京で開催された国際会議に行ってきた。南京事件から70年を迎え、日本人や中国人だけではなく、アメリカやドイツの人たちをも交えて、南京事件について、互いの思いを聴きあう会議だった。戦争とトラウマについて、私は今までにも関心を持っていたが、中国で起こったことは避けてきたように思う。

 中国や北朝鮮のニュースが取り上げられるたび、感情的になる父を幼い頃の私は大嫌いだった。父方の祖父の葬式で、腕を悪くした祖父が戦争に行けずに生涯苦しんだ話を泣きながら繰り返す父を見て、父の背景にある深い悲しみと傷つきを知った。でも、その時の私にはまだ受け入れられなかった。

 母は幼い時、祖父から満州のハルビンで関東軍に属していた頃のことを聞いてきたが、全部話を忘れてしまったという。私も聞いたように思うのだが、日本兵が妊婦の腹を裂き、胎児を銃剣で突き刺し、鳥かごに入れて、街中の電柱にぶら下げていた話しか覚えていない。でも、私の中では、それはあくまで鬼のような日本兵の話で、祖父には関係ないと根拠なく信じ込んでいた。おじいちゃんもやったの?なんて思いもしなかった。

 母方の祖父は、満州の大きな家から盗んだという掛け軸と右大腿部に弾丸を埋め込んだまま帰ってきた。どうやって生き延びたのか、帰ってきたのか、母に聞いても分からなかったし、母自身も知りたくないと言っていた。撃たれて、それでも帰ってきた祖父の生命は、祖父が生き残ったために亡くなった多くの生命があったのだろうと思う。大きくなって、ハルビンには731部隊があったと聞いた。祖父は軍曹だったと聞いた。

 母方の祖父は私をとてもかわいがり、優しくて正義感のある人だった。その祖父が「戦争は怖い。人殺しを多くした方が正義になる」と言っていたことが、強く印象に残っている。幼い私にとって、祖父が殺した相手は、鬼でなければならなかった。殺された人に家族があり、生き残れば私のような孫が生まれたかもしれないと考えれば、祖父は恐ろしい人殺しになる。そうして、私も祖父の加害を否認してきたのだろう。そう考えれば、母が何度も聞いた祖父のハルビンでの話が全て忘れ去られるのも納得がいく。でも、祖父が繰り返し話したことには、何か伝えたかったことがあるはずだ。

 母にはあまりに近すぎて忘れ去られてしまった話。そして、父の悲しみと傷つき。きちんと清算されず、ないことにされてきた戦争や暴力の影響は、その後の世代にも綿々と引き継がれていく。でも、2世代後の私なら、少しでも耳を傾けられるかもしれない。何かのきっかけになればと、南京行を決めた。南京行を反対するかと思った父も「気をつけて行ってこい」と送り出してくれた。

 南京での日々は、あまりに大きく、濃く、重かった。心で受け止めきれず、ありとあらゆる身体症状が出た。悲しいのか、怖いのか、何なのか分からないが、涙が止まらなくて、私は声をあげて泣いた。南京事件の経過やなぜ起こったか、被害の様子は勉強していったが、実際に行ってみて、そして生存者の声を聞くとたまらなくなる。予想以上だ。日本での認識のギャップにも、大きなショックを受けた。事件を知らせないできた上の世代、そして、知らないで済ませてきたその後の世代、どちらも私は罪だと思う。

 南京の学生たちは私たちと真摯に向き合ってくれた。怒りも表現してくれたし、日本人に対しての疑問もぶつけてくれた。(教科書問題から靖国、犠牲者の数にこだわる日本人、そして、なぜ日本で南京事件のことを知らない人が多いのか‥等々)ある学生は、「あなたたちは日本でも少数派。小さな力で、中国の大きな過去を背負えるの?」と聞いてきた。私は「最初は小さい力でも、帰国したら、私は私の周囲の人に伝える。そしたら、力は少しずつ広がっていく。そうするために来たの」と話した。彼女は「あなたの態度、行動を尊敬します。私は受け止めるには弱すぎる。私がキープできるように、手助けしてくれる?」と言った。対話を通して、互いの思いに耳を傾け、それぞれにできることを考える人たちに胸を打たれた。

 南京で学生に教えている日本人のご夫妻にも出会った。日本のことを知ってほしい、南京のことを日本に伝えたいと願い、3年前に南京に渡ってきたという。彼らの学生も会議に参加してくれ、私たちと向き合ってくれた。紛争解決、平和問題に取り組む日本人にもたくさん出会った。彼らがそれぞれ、どんな思いで南京に来たのか、この会議を企画してきたかを聞けたのも幸運だった。私より上の世代の彼らが、あれこれとぶつかったり、話し合ったり、怒ったり、泣いたり、真摯に向き合っているのを見て、私も安心して迷えると思った。思春期の子どもみたいだ。親世代があれこれ試行錯誤する姿に、自分も安心して試行錯誤できる。そうして守ってくれる上の世代がほしかった。同じ世代で頑張っている人たちにも出会えた。胸が震えるほど嬉しく、勇気づけられた。

 話は変わって。9月に、くるり主催の京都音楽博覧会に行ったことを思い出した。沖縄の歌手であるCoccoが『ジュゴンの見える丘』を歌う前に、話していたこと。この歌は、沖縄の辺野古崎で1時間にわたるジュゴンの交尾が確認されたニュースを見て作ったという。ジュゴンは絶滅危惧種に指定されていて、単体で行動することが多く、こうした場面を捉えた映像は非常に珍しいそうだ。辺野古崎は米軍基地のヘリポート移設が決まっている。その美しい海での、新しい命が育まれる瞬間だった。

 米軍基地については、NOということはできる。だけどCocco は、沖縄では賛成、反対は半々で、基地受け入れの複雑な現実があること、基地があるからこそ生まれた命、生きている命、生活している命があるということも知ってほしいと話した。基地に対して、YESもNOも、どちらの立場も、これから生まれる命のための「やさしい」を思っている。その「やさしい」がぶつかるのは悲しい。それが互いにつながったらいいのに…と。

 これは、Coccoの胸の中にある愛と平和の世界だ。YESでもNOでもない、今ある問題の解決もない。でも、Coccoは「私たちにできることがあると信じている。帰ってきたジュゴンにとってのやさしい、正しいは、私たちにとってもこれから生まれてくる命にとっても、やさしい、正しいになればいいな」と歌い始めた。

 南京でのことも、まずはこうして少しずつ、個人や民間レベルで互いに対話できていったらいいな、互いの「やさしい」がつながっていったらいいなと思う。これは私の理想の世界だろうか。でも今回の経験から、ほんの少しだが希望が見えたように思う。来年からも会議は継続してやっていくらしいので、来年も絶対に行こうと思う。もっと多くの人を連れて。

(2007年12月)