スタッフエッセイ 2007年10月

友だちについて思うこと

下地久美子

 中学のスクールカウンセラーをはじめて、今年で4年目になる。昼休みや放課後に、相談室に来る生徒たちと他愛のないおしゃべりをするのは、楽しいひとときだ。中学生の相談の中心は、なんといっても友だちのこと。小学校の高学年から高校生ぐらいまでは、友だちの存在というのは、とても大きい。一日の大半を学校で過ごすわけだから、親しく話す人がいないというのは、かなりつらいことだろう。もしグループから仲間はずれにされたりしたら、学校に行きたくなくなってしまうのも無理はない。

 先日来たAちゃんの相談は、「中学になって、仲のいい友だちができないんだけど、どうすれば友だちはできるの?」というものだった。そんな風に改めて言われると、「友だちって、どうやって作るもんなんだろうか」と考えてしまった。ひとつの集団の中で、気の合う人を見つけるというのは、簡単なようで難しい。私自身の交友関係の歴史を振り返ってみても、どうやって仲良くなったのか、よくわからない。一時期とても仲良くしていたのに、今は連絡先もわからないという人もいれば、小学生時代から、かれこれ30年以上も続いている友だちもいる。その差は、どこにあるのだろう。

 河合隼雄の「大人の友情」という本の中に、面白いことが書いてあった。「友人とは、夜中の12時に、自動車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人だ」というグッゲンビュールの挿話をひいて、どんな悪いことをしても、疑ったり、怒ったりせずに、ともかく無条件で話に乗ろうとする人が「究極の友人」だという。これは、極端な例だけど、友人とは、お互いのことがある程度わかっていて、困ったときには力になり、嬉しいときには喜びを分かち合える存在といえるだろう。

 そう思うと、なかなか本当の友だちというのは、巡り会わないものなのかもしれない。人間だから、良い面も嫌な面もある。それを許容したうえで、なおかつその人が好きでいられるかどうかにかかってくる。しかも損得を越えたところにある。友だちというのは、即席ではできないし、ほどほどの熟成期間が必要になってくるようだ。

 私の場合、長く続いている友人は、どれだけ無駄な時間を共有したかに関わっている気がする。どうでもいい話を延々としているうちに、誰にも見せなかった顔が出たり、隠しておきたいような出来事を打ち明けることがある。そんなネガティブな部分をさらして、受け止められたり、受け止めたりする経験があって、友情の核のようなものが作られるのではないだろうか。

 でも、友だちを作るのには時間がかかるといって、早々に諦めることはないと思う。これだけ大勢の人がいるのだから、その中には、きっと気の合う人がいるはず。まずは、話しかけること。何らかのアクションを起こさないと、友だちになんかなれない。かといって四六時中一緒にいることが友情ではない。学生時代は特に、いつも一緒にいて、一心同体のような関係こそが友だちだと錯覚してしまうところがあるが、そういう関係は、卒業して別の道を歩き出すと、自然消滅してしまうことが多い気がする。大人になってわかることだけど、互いに自立していて、相手の「個」の部分を思いやる気持ちを持ち続けられることも、友情を保つ秘訣だろう。遠く離れていても、その人のことを思うと心がポッと明るくなるような関係というのはいいものだ。

 Aちゃんと一緒に、どうやったら友だちができるかを考えているうちに、これまで出会ったいろんな友だちの顔が浮かんだ。長く会っていない友だちに、久しぶりに電話をかけてみよう。時間や距離を越えて、まるで昨日も会っていたかのように話に興じられる関係が、本当の友だちかな・・・。

(2007年10月)