スタッフエッセイ 2007年4月

巡り合わせ

前村よう子

 「巡り合わせ」という表現で言い切ってしまってもいいのかどうか分からないが、今年1月のとある日に体験したことを書きたいと思う。

 何度かここのエッセイでも書いているが、私は(見た目に似合わないらしいが)結構ミーハーで、とあるデュオの大ファンである。年末のコンサートや、それぞれが単独で実施するソロコンサートのみならず、東京のとある劇場まで、デュオの1人が毎年主演をつとめている舞台を観に行くことにしている。がしかし、この舞台のチケットが曲者。超プラチナチケットで、ファンクラブに加入していても当選しない。応募しても全て落選した年も何度かあったが、心優しき友人たち(ファン仲間)のお陰で、たとえ最後列であったとしても、なんとか舞台を観劇することができている。

 話は少し過去に遡る。数年前、私は子宮筋腫の手術(「UAE」と呼ばれる子宮筋腫の動脈塞栓術で、開腹手術をせずに、足の付け根から細い管を動脈に入れ、子宮筋腫に栄養を送っている動脈に一時的に栓をすることで、筋腫のみを壊死させるという治療法)を受けた。まだこの治療法が日本では珍しい頃で、手術を受けた病院では、私は5人目の患者だったらしい。「子宮を筋腫ごと切り取ってしまえば楽」等という他病院の医師に絶望して、ネットで探しあてたこの治療法に、私は賭けた。結果的に手術は成功し現在に至っている。

 さてこの手術の数ヶ月後に実施された舞台の折に、ある方が、そのプラチナチケットを快く譲って下さった。「頑張って手術を乗り越えたんだから、ご褒美みたいなもの」ということで。その席は、舞台全体を見渡せ、その上、舞台を間近に感じられるような素晴らしい席だった。「今度、私自身が良い席を当てることができたら、必ずこの方を誘うぞ」とその時、心に誓った。けれどそれ以来、私の購入できたチケットは、最後尾かその一つ前の席ばかり。とてもじゃないが、声をかけられるような席ではなかった。

 そんな事が数年続いた昨年暮れ、私の元に郵送されてきたチケットは、大当たりだった。なんと1階1列目のほぼ中央近く。ファンならば一度は憧れる席であった。いつもなら娘も「絶対行く!」と飛びつくであろうが、娘は当時受験生、いくら私でも連れて行く訳にはいかない。「これも何かの巡り合わせやわ」と、先ほどのファン仲間を誘うことにした。ところが、彼女は携帯アドレスもPCアドレスも変更してしまったようで、連絡が取れない。他のファン仲間に尋ねても新アドレスは不明だった。数年間分をため込んだ年賀状の束から彼女のをやっとのことで見つけ、速達で手紙を出すことにした。これで引越されていればアウトである。数日後、彼女からの返信メールが無事届いた。一緒に観劇できるという。「これで恩返しができる」というホッとした気持ちと、久々にお会いしてお喋りできるのを楽しみに当日を待った。

 そして1月のとある日、宿泊先のロビーで待ち合わせたのだが、彼女の姿を見て、私は驚いた。私より一回りくらい年上の彼女は、杖をついておられた。お話をした感じも、どことなく以前とは違うと感じられた。「事故にでも遭われて怪我をなさったのかな?」そんな風に思っていた。けれど、事故ではなかった。「脊髄小脳変性症」・・・皆さんは『1リットルの涙』という書籍や映画、ドラマをご存じだろうか?彼女の症状は、そのドラマの主人公と同じものだった。人によってその進行度は異なるが、大脳は正常なまま(知能には何らの変化なく)、手足や言葉という身体の機能が不自由になっていく進行性の病だという。ショックを受けて何も言えないでいる私に、彼女は「でも、障碍があることを了解してもらった上で働ける場所も見つかったし、実家も近くにあるし、子どもたちもいるし、きょうだいも近くに住んでいるし、大丈夫。昨年末は、東京のコンサートにも行けたのよ」と明るく語られた。シングルとしての再出発時に発覚した病。にも関わらず、彼女は強く前向きだった。

 もちろん、最前列で観た舞台は素晴らしいものだったし、毎年行われる再演目とはいえ、今年のそれは余分なものをそぎ落として、さらなる進化を遂げた感動的なものだった。が、それにも増して、この舞台を彼女と観ることができたことが嬉しかった。チケットが当たったのが、来年や再来年ではなく今年であったこと。いつもなら筆無精の私が、押入を引っかき回してまで年賀状を探し、すぐに手紙を投函したこと。いつもなら同行するはずの娘が受験生だったこと。全てが何かの符合のように重なった。

 「巡り合わせって、こういう事やねんなぁ。人って、人とのつながりの中で生きてるんやなぁ。」と、しみじみ感じることのできた体験だった。

(2007年4月)