スタッフエッセイ 2006年11月

遠足

長川歩美

 6年前、結婚の準備段階で、夫ともめにもめたことがあった。
なんでこう上手くいかないのか―音楽、花、料理、招待客・・何か1つ決めるにも、なぜかスムーズにいかなかった。今から思うと、主張と気遣いのタイミングがお互いにずれていた。自分のこだわりを押しとおすことへの遠慮と、相手に譲ることへのイライラが、意識されないままうっ積していたのだと思う。ややこしい・・。

 そんな中、優柔不断は「自分の我」と「相手への気づかい」の綱引きだ、とふと気付く。

 当日を終えると、もめたことなど吹っ飛んだのではあるが、さて日常生活がはじまると、今度は休日の過ごし方が気になるようになった。なんかダレるというか。「今日どうする?」「どうしよっか。」「でかける?」「どっちでもいいよ。」・・結局どこへも出かけないまま、家で過ごしたり。それはそれで悪くはないのだが、せっかくの休日がもったいないような気がしてならなかった。

 そんな時、TVで「恋するハニカミ」という番組を観た。番組がデートの内容を計画し、呼ばれたタレントの男女2人がスタート地点で出会い、企画に沿ってデートコースを楽しむというもの。観ていると、次にどこに行くかわからないワクワク感や、自分では思いつかないような遊び方の提案が新鮮に感じられたが、同時に小・中学校時代の遠足を思い出した。

 気の向くまま、なんとなく旅をするのも好きだが、きちんと主張をもって企画されていた遠足―ああいうのも、なんか楽しかったなぁ。どうも私たち夫婦は計画下手だ。なんとなく楽しいけれど、なんかすっきりしない。1人なら、活き活き好きに動くのに、2人でいると動かない。夫婦だけでなく、付き合いの長いカップル、友達同士にもあるような気もする。

 早速夫に「遠足企画」を提案し、やってみることにした。計画は2人でたてるのではなく、交代で片方が企画することにした。ルールは@相手に遠慮なく、自分の行ってみたいところ、してみたいことを日帰り可能な範囲で企画すること。A失敗OK。お互いの企画を尊重して、ハプニングも楽しむ、の2つを提案した。職業柄か、企画の中に思い切り相手の世界を展開してほしいという思いと、自分もまたその時々の興味を反映させたい思いがあった。

 行き先、立ち寄りどころ、移動経路はもちろん、食事スポット、おおよその時間配分を見込んで企画する。行き先は予め伝えても、当日伝えても、伝えないまま出発してもOK。ここは双方の希望を確認。ただし、服装、持ち物などへの留意点はあらかじめ伝えておく。汚れてもいい服装、歩ける靴、入浴の準備など。

 月に1度の「遠足企画」ということでやってみると、今まで気付かなかった、相手と自分の違いを知る好機になった。お互い合わせてもらっていたことへの気づき、自分のあまり知らない相手の着眼点・・。相手の興味を味わい、自分の興味を展開する。断然こっちの方が面白い!と意見が一致した。拙い進みではあるが、この「遠足企画」を通じて、主張と受容のバランスを学び、自分が企画する喜びと相手の企画に委ねる喜びを体験できた。普段のコミュニケーションも豊かになったのは、「主張」と「受容」の役割が固定しないところが幸いしたように思える。

 異国間のコミュニケーション・人間関係においては、主張的な性質と受容的な性質がはっきり分かれてしまうことが多いように思う。日本人は受容側にまわり、主張する時にもつい言い訳じみてしまう。主張優位型の国も、受容優位型の国も、反対要素を豊かにできればいいのにと思ったりする。そんなに簡単にはいかないだろうが。

 最近、女友達との間でも「遠足企画」をするようになった。朝から晩まで1日中、季節を、食を、芸術を楽しんで、名残惜しんで家路につく。帰りの電車でとろとろと居眠り。帰宅後、遠足から帰った後のくたくたになった足、水泳の後の全身のけだるさに似た心地よい疲れを感じながら眠りに着く。日々の執着が空っぽになる感じ。

 かくして、わたしはこの「遠足企画」がすっかり気に入ってしまった。
家族や友人、これから出会ういろんな方々と、相手と自分を確認する「遠足」に出かけてみたい。


 
(2006年11月)