スタッフエッセイ 2006年10月

目には見えない誕生日

おだゆうこ

電車に揺られながら、姉とメール交換をしていたときの事である。

ふと、誕生日についての話となった。
「この世に生を受けた日、生まれた日を誕生日というならば、母親の胎内で生を受けた日(つまり着床日)のほうが相応しいのではないだろうか・・・」と。
なるほど、考えてみれば存在はみえなくとも、胎内にいるその時から母親、父親をはじめ母子を取り巻く周囲の人たちに大きな影響を与え、小さな命の成長とともに私たちも育てられていくのだから。

今まで、そんなにこだわって考えてみたことがなかったので、この機会に少し考えてみることにした。
「誕生日」を共通言語にしていくためには、どこかで線引きをすることが必要だろう。その基準となる線が問題となるわけだ。勝手に推測するに、私たちの暮らしの中で、その線引きの多くは目に見えるか、目で見て存在が確かめられるかということが大きな分かれ目になっているように思う。「有るか、無いか」「多いか、少ないか」「美しいか、汚いか」物事を判断する基準は視覚に頼るところが、実に大きい。

でも、それってほんとだろうか?
目に見えること、見えないことが大事なことだろうか?

心に携わる仕事をしていて、色んな人たちに出会う中で、目に見えないもの、わからないことの大切さ、大きさを教わり、そうしたことを感じようとする自分に出会うことができた。目に見えないことを見ようと、認めようとするとき、不安はつきものである。目に見えないものは「無いもの」とした方が、すっきりするし、安心できるというのもよくわかる。(お化けや、幽霊、宇宙人、微生物や細菌の存在をいちいち意識しだしたら、安心して暮らせないものね・・・。)それでもやはり、人もどこかで目に見えないものの大切さを知っていて、それらを信じようとしたり、見ようとしたりする力をもっていて、それを求めているよう想う。

目に見えない存在に気付き、感覚を寄せ集めて感じようとしたり、耳を傾けたりすることで、不安を通り越し、力(癒し)を得たり、勇気を得たり、希望が見える・・・そんな気が私はしている。命の誕生にしても、人の心にしても、目に見えないものは様々な形の表現で私たちにメッセージを発し、気付きを促してくれる。大事なものは目には見えず、すぐに消えていってしまうものかもしれない、だからこそその時々の出会いを、そうしたものとの繋がり合いを大事にできる自分でありつづけたいと思う。

私にとっての誕生日はやはり命の誕生日の方がしっくりくる。

(2006年10月)