スタッフエッセイ 2006年9月

子どもの時間

村本邦子

 この夏、バリの小さな村で、一週間ほどホームステイをした。まだ大家族制が残っているので、近隣に住む家族(拡大親族)が、毎日のように集まってくる。お母さんやお父さんもやってくるが、一番、多いのは子どもたち。0歳から20代まで、女の子も男の子も(でも、中高生くらいの子どもたちと会わなかったな。思春期の子たちは、やはり、いったん、家族から距離を取って、仲間たちと徒党を組んでいるのだろうか?)。5〜6歳の子が赤ん坊を抱き、大きい子が小さい子の面倒を見ながら、日が暮れるまで、庭で戯れる。その合間に、気が向けば、大人たちの中に入っていっては、毎日、欠かせないお供え物作り、野菜の皮むきなど食事の下ごしらえ、アイロンがけなどを手伝う。

 一週間の間、大人が子どもを大声で叱っているような場面を一度も見なかったし、ごく稀に、小さい子どもの泣き声は聞いたが、基本的に、子どもたちは皆、機嫌が良く、ニコニコしている。私の眼には、まだまだ子どものように見える20代前後の若いお母さんたちも、子どもに向けるまなざしは、暖かく、いかにも親らしい。日本の子育てといったい何が違うのだろうかと、あれこれ考えてみたが、自然な生活の流れのなかに、子どもたちがいる。ゆったりとした子どもたちのペースで生活が流れ、それに添って、日常が回っているから、子どもたちに無理をさせる必要がないのだ。大人が子どもを対象化して、あれをさせ、これをさせといった操作的意図が見られず、むしろ、子どもの主体が尊重されている。いつもが子どもの時間だ。

 私自身、田舎に育ったので、自分の子ども時代が重なって見え、ひとしきり思い出に浸った。正確に言えば、札幌、奈良、大阪と引っ越して、ちょうど7歳になる時から、鹿児島の父の実家に住むようになったのだが、幼稚園に入るまで住んでいた奈良(尼ヶ辻)も、当時は相当、田舎だった。見わたす限り田んぼ。甘く懐かしい郷愁とともに、池の上を滑るアメンボが眼に浮かぶ。私が一番小さかったけど、近所の子どもたちの後をついて回って、あれこれ世話を焼いてもらったし、ちょうど妹が生まれる頃だったが、同じ敷地にある大家さんの息子さんや娘さんたち(当時は大人に思えたけど、たぶん、中高生くらいだったろう)が可愛がってくれた。納屋に素敵なブランコを作ってくれたっけ。大阪(守口)はすでに生水を飲めない都会だったけど、それでも、近所の神社でよく遊んだな。知らない子たちとも遊んでいたと思う。

 そして、父の運転する小さな車になけなしの家財道具、両親に三人の子どもと犬一匹で、出来たばかりの関門トンネルを通って、鹿児島の家に着いた時の驚きと感動。青い空と白い雲、緑の田んぼと山に囲まれ、なぜだか自分が世界の中心にいると感じて、大はしゃぎした。家も築百年のボロ屋ではあったけれど、大きくて、ちょうど、となりのトトロみたい。まだ五右衛門風呂だったし、床下にもぐって探検すれば、先祖の宝でも見つかるんじゃないか・・・なんて感じだった。庭の草陰に石神さんを見つけたっけ。

 私も少し大きくなり、妹や、生まれたばかりの弟をおぶって遊びに行ったり、近所のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちに構ってもらったり。竹藪の基地作りに没頭し、裏山に探検に行ったり、薪拾いや畑の手伝いも遊びの延長だった。お月見なんて行事があった。男の子たちが、各家庭を回って藁を集め、大きな長い縄をなって綱引き。それをくるくる丸め、土俵を作って、相撲大会。この日だけは、子どもたちだけで夜遅くまで外で遊ぶことが許され、肝試しやクイズ大会もやったな。

 バリでも、取れたての落花生を煎って出してくれたが、うちでも、庭で作った落花生を煎って食べたし、ちょうど、お祭りで、鶏を絞めて丸焼きにしていたのだけど、そんなこともしていた(怖かったから、近所の子たちとキャーキャー言うだけで、一度も見なかったけど)。結構、何でも家で作っていたな。野菜もお茶も。椿の実を拾って油にして、髪に使っていたものだけど、今から思えば、立派な椿油だった(今は、高い値段で購入して、アロマのキャリアに使っている。椿油は、髪や日焼けに良い)。

 自然と調和しながら、時間に追われず、子どものペースで生活が流れること、遊びと仕事の境目が曖昧で、すべては生活の一部であること。子どもが育つことだってそう。子育ては大層な事業なんかではなく、ただただ、ふつうに人が生活しながら大きくなっていくことに他ならなかった。何もかもが、現代日本のあり方と違ってしまっているな〜。昔が良かったばかり言っていてもしょうがないのだけど、生活の流れをもう少しゆったりできないものか。いつもを子どもの時間にして。

(2006年9月)