スタッフエッセイ 2006年8月

夏休みの思い出

下地久美子

 いきなり小学生の作文のようなタイトルだが、子どもの頃、夏休みといえば、神戸の祖母に家に行くのが楽しみだった。大阪からの途中、新開地の駅で、いつも冷やしうどんを食べさせてくれて、それがとても美味しかったのを憶えている。祖母の家は、須磨の海岸のすぐ近くで、毎日のように海へ行って遊んだ。当時の須磨は、今のように派手な海の家もなく、のんびりしていて、時おり、アイスキャンディ売りのおじさんが来るぐらいだった。

 祖母は、明治33年に神戸の居留地で生まれた。生家は貿易商を営んでおり、幼少期は、羽振りが良かったらしい。病気がちな父親に代わって母親が、会社を切り盛りしていたが、時代と共に傾いていったそうだ。20歳のときに最初の結婚をするが、夫はすぐに病死し、同じく妻を亡くした祖父と22歳のときに再婚した。祖父は、石材店を経営していたが、60歳のときに愛人宅で倒れ、そのまま亡くなった。祖父は粋な遊び人で、祖母は、随分泣かされてきたという。

 祖母は、お話の名人で、寝る前に祖母の話を聞くのが、何より好きだった。娘時代に風呂屋の帰りに、女の人に化けたタヌキを見た話や戦争中の話は、特に興味深くて、何度も話してくれるようにせがんだものだ。

 私が中学生になってからの祖母に家での楽しみは、祖母の買っている女性週刊誌を読むことだった。ゴシップ記事が満載の週刊誌をダラダラしながら読んでいても怒らないどころか、「あんたは、よく本を読んで、えらいなぁ〜」と褒められるのは、面映ゆいところもあったが、そんな無為な時間を心ゆくまま過ごせるのはうれしかった。

 祖母は、巻き寿司やおはぎが得意で、よく作ってくれた。自分で塩昆布も炊いていて、夏休みには、大きな昆布を正方形に切る手伝いをしたものだ。しょうゆの味が滲みた甘辛いし昆布をたっぷり載せたお茶漬けは、今でも忘れられない味だ。

 祖父が亡くなったあと、長男が商売に失敗して行方不明になり、次男の家族と一緒に住むようになった祖母であったが、病気ひとつせずしゃんしゃんしており、きっと、祖母は、100歳まで長生きするだろうと思っていた。が、そんな気丈な祖母も、85を越えた頃から、入退院を繰り返すようになった。最後に入院したときは、癌だった。母や伯母たちとローテーションを組み、私も週に1度ほど病院に泊まっていた。

 ある日、会社の帰りに病院へ行くと、祖母は集中治療室で眠っており、私は傍らで本を読みながら過ごした。夜中に、祖母を見ると、ハラハラと涙を流していた。人工呼吸器をつけていたため話ができなかったが、祖母の涙を見ると、どうしようもなく涙がこぼれてきた。一晩中、涙を流す祖母の手を握っていた。あの時の祖母の涙の意味はなんだったのだろう。私に何が伝えたかったのだろう。その日が、生きた祖母に会う最後になった。祖母は88歳で、息を引き取った。

 祖母が亡くなってから何年も過ぎたが、もっと祖母に、いろんな話を聞いておけばよかったと思う。日本の激動の時代を生きてきた女性として、何を思い何を感じていたのか。そのことが今も悔やまれる。

 夏休みになると不思議と祖母のことが思い出され、甘酸っぱいような懐かしい気持ちになる。今でも、山よりも、海に心惹かれるのは、子どもの頃に見た須磨の海と重なるためだろうか。

(2006年8月)