スタッフエッセイ 2006年8月

蛙の木登り

おだゆうこ

 とある週末の午後、ふと久しぶりにお寺に行きたくなった。
学生時代は、日常と隣り合わせに非日常がある京都の町並みと雰囲気に魅せられてよく寺めぐりをしたものだ。デパートや店が立ち並び、人々の行き交う雑踏、慌しい時間が流れる現実感あふれる通りでも、ふっと路地に入りこめば、表の現実の流れと違った時間軸をもった空間がある・・・そんな現実と非現実を裏表に持ち合わせた奥行きのある(二面性のある?)京都が好きだった。

 仕事をするようになり、京都だけではなく滋賀や大阪の町並みにも触れるようになり、京都の特殊性を益々感じるようになったと同時に、滋賀のお寺のありように魅せられるようになった。特に湖北エリアのお寺は、ごく自然な形でそこにあった。畑の向日葵や花壇のわきに犬が昼寝をしていたり、溝掃除をしている人に挨拶をしながら、ふと気が付けばお寺にはいっているという・・・おばあちゃん家の庭からお家に入っていく、そんな懐かしい生活観あふれる雰囲気の中に寺があり、観音様がいらっしゃり、神社があるのだ。京都のお寺に魅せられていた私にとってこの出会いは新鮮だった。そこには現実と非現実の境も、敷居もないのだ。なんだか「ただいま〜」といいたくなるような、「おばあちゃんのお家」であり、まず腰をおろしたくなるようなそんな雰囲気がある。そうした家の中に国宝の十一面観音様がいらっしゃったりするわけだから驚きだ。それは見せるためのお寺ではなく、生活の中にある憩いであり、癒しなのだろう。

 今でももちろん京都は好きだが、最近は自然で単純な方がいいなぁと思うようになった。人に見せるために、飾ったり、構えたりすることで磨かれたり、光ったりする感性もあるし、そうした刺激も大事なことだと思う。京都の寺や桜はやはり美しい。が、見られる桜やお寺は、ポーズ(構え)をとっているように見えるのは私だけだろうか?滋賀のお寺や木々に出会い、日常の中に癒しがあるほうが楽ちんでホッとするよなぁと思った。今後は滋賀のお寺のように、構えずに肩の力を抜いて、周囲と自然に馴染むような裏も表も日常も非日常ものない、日常の中に癒しがあるような生き方ができたらなぁと思っている。

 そんなことを思いながらお寺に生えている一本の木をながめていたら、どこからともなく一匹の蛙がやってきた。「おっ!何を思ってやってきたのだろう?」と注視していると、なんと彼?は木のぼりをはじめたのだ。何も考えずにはねているのだろうと思っていたが、彼には意志があったのだ。木に登るための最適なコースをたどって、木の幹にピタッと張り付いた!そこかはしばらくじっと動かない。が、ある時何を思ったのか、もそもそと思いだしたかのように木登りを始める。そしてまたピタリと止まる。その様子に魅せられて、かれこれ閉館までの3時間彼の木登りを見守った。まだまだ木登りは始まったばかり。その木はお寺の塀を越えた「向こう側」につながっている。蛙が何をおもって木登りをはじめたのかはわからないが、今、どのへんまで登ったかな〜と思いながら帰路についた。

(2006年8月)