スタッフエッセイ 2006年6月

「わくわく」

津村 薫

冒頭はまるで村本のエッセイ「元気の素」に寄せた感想エッセイみたいになってしまうけれど(笑)、遊び心がある人、楽しくわくわく生きてる人と会うと、「私はこんなふうに生きてこなかったなあ」と思う。遊び心のある人はいきいきしていて、魅力的だ。そういう人と話していたり、お目にかかる機会があると、カルチャーショックの連続だ(笑)。私が生きてきた文化となんと違うこと、違うこと。失礼ながら、旭山動物園にいる北極熊のダイブさながらに驚くことが多い(笑)。

 私が育った家庭では逆に、「楽しいことだけにうつつを抜かしていてはいけない。苦しくても大切なことに目を向けなさい。人間は向上心を持ちなさい」というメッセージがあったように思う。芸術教育研究所所長の多田千尋氏は、「遊びに対する我々の評価が低い」と指摘する。そうなんだよね。一生懸命遊ぶことは生きる力を育むことなんだけど、かたや私たちの社会には「遊んでばっかりいて!」「遊び半分でやってはいけない」という叱責があるのだから。

私の育った家では、蛍の光窓の雪などというのは敬うべき美徳で、「寝食を忘れてまで勉強する」のは素晴らしいことだった・・・・その割に、子どもの中にそんなガリ勉は誰も出なかった。「いいぞやれやれ」と言われ過ぎると辟易してやる気が起きないものだろうし、仕方ないよね(笑)。それでも私は大好きな本を読んでいると誉められ、どんどん本を与えられ、好きな世界で楽しむことを奨励された。両親には感謝の気持ちはおおいに持っているのだけれど。

でも、「人生努力と辛抱。譲ったり、我慢強いのが偉い」という環境下で育った私だから、好きなことをしてうんと楽しむことには、一抹の罪悪感がつきまとったものだ。でも、「遊ばないとなー」とあれこれ努力するというのもおかしなものだ。「津村さん、努力した時点で、もう遊びじゃないって」と前述の多田氏に言われて、思わず失笑。確かにそうだ。

ちょっと罪悪感があるのは、子どもに対してだ。娘が小さな頃は、絵本が山ほどある本屋さんに連れて行って、どれが楽しいかを見つけたり、泥団子作りに精を出したり、あれこれと楽しく遊べることを一緒に探していたようには思うけれど、遊び心の少ない私のことだから、そんなにうまくはやれなかったかもなという、忸怩たる思いがあるのだ。

たとえば、娘は手先が器用で、細かい作業が好きだ。それは裁縫だったり、お菓子作りや料理などで、私がもっとも苦手とする分野だ。子ども用の包丁を早くから握らせて、胡瓜を一緒に切ったり、ハンバーグのタネを丸めたりはしたけれど、料理が苦手な私がさせてやることだから、それはきっと、ふくらみがないものだったに違いないのだ。

その娘が志そうとしているのは、その食の大切さを伝える専門職だった。「どうして、その道がいいと思ったん?」と聞いたら、「食べることが大好き。料理も大好き。食べることを考えるだけでわくわくするから」。

その一言は、やはり私には旭山動物園の北極熊ダイブだった(笑)。それでも何より嬉しい言葉だった。自分自身の感性を何よりも重んじて、自分自身の気持ちに尋ねて、やりたいことを決めていこうとする姿勢を我が子が持っていたことに安堵した。

「私ってさ、なんかつまんないヤツみたいなんだ」と夫に話した。「おー、それ何かわかるなあ」と夫。夫も私と同じようなメッセージを、親を含む大人や社会からもらったと思う、と言う。「私たちってつまんないよねー」と大笑いした。じゃあ私たちは何が楽しいだろう?何にわくわくする?という話を、ジュースで乾杯しながら長々とした。あら、わくわくしてるわ、私。これって遊んでるよね(笑)。

(2006年6月)