スタッフエッセイ 2005年9月

祖母の話

おだゆうこ

 戦後60年を迎えた今年の夏、お盆に実家に帰った時にやっておきたいと思っていたことがあった。祖母に戦争体験を聴くことだ。たいてい小学生の夏休みの宿題などで経験しそうなものだが、意外にもその機会を得ずにきた。

 祖母は福岡は中津の生まれで、百姓の長女として育ったが、田舎の百姓暮らしは嫌だと都会に出て、商売人である祖父と知り合ったそうだ。当時にしてみれば、かなり勇気のある行動的な女性だっただろう。祖母は世に言う肝っ玉の据わった九州女で、6人の子どもの母として、妻として、家と家業を支えてきた。子どもには厳しかったようだが、私は13番目の一番年下の孫だったためか、私にとっての祖母は、大きくて、やわらかくて、優しい存在だった。幼い頃から子守唄や昔話は祖母から聴きかされていた。意味は良くわからないが、お話の最後に必ず「お終い。・・・かっぽ。」と景気よく言ってくれるのが大好きで、よく「お話をして、して。」とせがんだものだった。その他にも、「親の意見となすびの花は、千に一つもあだがない」などのことわざ、床づけやイカの塩辛の作り方、お風呂は肩まで浸かって100まで数えること、般若心経のあげ方、全て祖母から教わった。

 そんな大きく、柔らかく、頼もしい祖母は、糖尿病を患っていて、もう何十年も前から闘病生活を送っている。大きかった背中も痩せて小さくなってしまった。足や目は悪くなってしまい、耳は遠くなったもの、まだ頭はシャンとしていて、何を聴いても張りのある声で返答してくれる。

 「祖母が元気なうちにやはり、一度戦争体験を聴いておきたい。祖母の体験を、想いを受け継ぎたい。」そんな想いになったのは、去年の「戦争とトラウマ」の年報に取り組むことができたお蔭だろう。そして何より私自身が「祖母の昔の語りを聴く事で、それをどう今に繋げているのか。今、祖母はどんな気持で生きているのか」を知りたかったのかもしれない。

 北九州で商売人をしていた祖父は兵隊にとられるはずはなかったのだが、戦争が長引き一般市民も戦争に借り出されるようになる。ある日突然、赤紙が届いた時のことは忘れもしない。4歳の子どもと乳飲み子、3人目をお腹に孕んでいた最中だったと言う。何の前触れもなく急に一家の主を奪われ、女で一つで子どもと工場と工夫を背負っていかねばらなかったのだ。更に、祖母の家は、門司港から出航する兵士やその家族を泊めて送り出すという宿の指定を国から受けており、毎日毎晩、戦場に赴く兵士やその家族に食事と寝床を用意し、泣きくれる人たちを慰めたそうだ。

 「結婚してまだ3ヶ月だという新妻は『兵隊なんかにとられたくない。行ったら死んでしまう。もう二度とあえなくなる、まだ私たち結婚したばかりなのに・・・』とオイオイあまりに泣くもんだから、こっちまで泣けてきてね。毎晩一緒に泣いてたんよ。『戦争に行くからといって死ぬとは限らんのやから。』とか言って慰めたりしながらね。」と。また、祖母は闇市に幾度も出かけ、出陣する兵士やその家族に少しでもいいものをと食べさせようと、支給されるもの以外に自分は食べなくとも、色々とこしらえてもてなしたそうだ。

 その時の心境をたずねてみると、「新妻が泣くのも皆、自分も同じ気持ち。兵隊になって出て行くのを見送るのは、皆辛い。自分と重なる。少しでもその場に来る兵士によくしてあげたら、めぐりめぐることだからと思って必死やった。」と話してくれた。そして「戦争は悲しいことばっかりや。いいことは一つもない。」と。

 その後、祖父は本当に無事帰還したと言う。ある少尉のはからいで、奇跡的に戦場に赴くことを免れたそうだ。その話も祖母は丁寧に何度も話してくれた。それは、祖母が戦地に赴く兵士に今自分ができる最善を尽くして見送ってきた行いが、巡りめぐって奇跡を生んだように思えてならなかった。祖母の話から、戦争による闘いやダメージは戦地や空襲、原爆といった直接的なものだけでなく、その場に残された女性たちが引き受けてきた戦争のダメージや傷付きを垣間見た気がした。

 そしてまた、そのダメージを繕い、表には見えない形で戦い、支えてきた女性の力を感じた。当時の祖母をはじめとする女性の力には頭の下がる思いがした。そうした祖母の行いが、祖父を戦争から帰還させ、戦争後母が生まれ、私がいる。そうした縁や運だけではない、努力による「世代の繋がり」に初めて触れた気がした。

 そして、最後に祖母は「そんなこんなで、いろいろあって86歳まで生きてきたわけよ。悪いことばっかりでもないし、いいことばっかりでもない。いろいろあって、ここまできたんよ。」と締めくくった。その言葉には色んな想いが含まれている気がした。そして、その言葉に心がスッと軽くなるのを感じた。おそらく母も同じ気持ちだっただろう。祖母の闘病生活は長く、しばらくの間「皆に迷惑ばっかりかけて、死にたい」とよく口にしていた。しかし、その最後の言葉を口にした祖母は何かふっきれたような、達観したような表情で、スッキリとして見えた。そして私は、なんだかとても大きな安心をもらったような気がした。

(2005年9月)