スタッフエッセイ 2005年6月

「父の日」週間〜父を想う

おだゆうこ

渡邉エッセイの『親父の味、開発中』のエッセイに引き続き、父の日週間と銘うって、父親についてあれこれ想ってみようと思う。

母の日と言えば、カーネーション。父の日と言えば・・・?
父の日のシンボルフラワーはこれというものがないようで、時期的に薔薇だったり、ヒマワリだったり、蘭だったりするようだ。渡邉エッセイによれば「親父の味」と言うのも、これといったスタイルが無く、掴み所がなく分かりにくいものらしい。父親にまつわるものは、あまり知られていないというか、関心をむけられにくいのだろうか・・・・?

私の父親はどうだっただろうか・・・・我が家での「親父の味」とは、「こだわりと隠し味」といったところだろうか。こだわりのオムレツ風卵焼き,自称タイ・バンコク風焼き飯とオニオンスープ。殆どこれしか作らないけれど、それらは研究に研究を重ね、フワッと感やほどよいパラパラ感を出すために、バター、チーズ、牛乳などの隠し味とフライパンテクニックを駆使していた。その他に思い浮かぶことと言えば・・・お風呂掃除と珈琲の入れ方の免許(ここにもテクニックと隠し味を要する。これで一人前というお墨付きをもらえるまで、何度も工夫をこらして掃除をしたり、美味しく珈琲が入るように隠し味やテクニックを駆使したものだった),その他にも、クラッシクの作詞替え歌(カルメン1楽章の節にハゲちゃびんの父ちゃんがアデランスを買いに小倉まで出かけていく唄),振り付けダンス(指導と免許あり),大の大人としては意味の分からないちょっと恥ずかしい言動(突然のかくれんぼ、突然英語で電話に出るなど父なりのユーモアとサービス精神だと多分思うが・・・),駄洒落をきかしたお土産(試験に勝つカツ弁当),朝はギリギリにコートを翻しながら走って出勤する背中(私はそれを受け継いでいる)等など・・・・

 思い出してみると結構いろいろと思い浮かんでくる。ちょっと一般的な父親像とは違っているかもしれないが・・・我が家の父も一見すると、よくわからないし、掴みどころがないように思う。しかし、今思えば、それは企業戦士として理不尽な力関係が横行する弱肉強食の社会の中で、それに屈してしまわず、なんとか自分らしさ(繊細な感性とポリシー)を持ち続けるための、少し切なくもある隠し味的自己表現だったのかもしれない。。。。

理不尽なことが横行する社会の荒波の中で家族を養うために働いてきた父親はもしかすると女性や子どもに比べて素直な自己表現や柔軟な発想を持ちにくい状況に追い詰められているのかもしれない。家庭のために誰かのために自分を犠牲にし、「父親」として頑張り続けるのではなく、弱音を吐いたり、時には脱線して軌道修正もしながら「自分自身」であるために生きてほしいと私は思う。私が、上記のような父の言動を慕ってこれたのは(時にはうっとうしくもあったが)、そこに、ただのお茶目さんや父親としての役割だけでなく、人としての優しさと、父なりの(自身としての)こだわりという隠し味があったからだと思う。父はよく「夫婦といえども言葉にしないと、表現しないとわからない」と母に言っていた。それは、もしかすると自分自身に言っていたのかもしれない。

なかなか自らを語ろうとせず、頑固であることが父親の美徳であり、威厳であるというのもあるかもしれないが、父の日を週間をつくって、父親に関心を向けて父親の自己表現の機会を家庭につくってみるのもいいんじゃないだろうか。私にとっての父親の威厳とは、(見えない時間帯に)頑張って働く姿よりも、ユニークさやお茶目さをもって誰に対しても変わらない自己表現や愛情表現をしてくれた姿である。確かに、本人からしてみれば、「どことなくつかみ所が無い」というのは、父親の威厳としての隠し味になるのかもしれないが・・・同じ威厳ならそういった、「父親」からにじみ出る「人となり」の隠し味の威厳であって欲しいな。

(2005年6月)