スタッフエッセイ 2005年6月

親父の味、開発中

渡邉佳代

 父の日にちなんで。突然だが、「親父の味」というものは、あるのだろうか。「母の味」「おふくろの味」というのは、度々耳にする。テレビや雑誌でも特集まで組まれて、ランキングには味噌汁、肉じゃが、煮付け・・・と王道が並ぶ。共働きで、帰ってくると慌しく夕食を作っていた私の母は、肉じゃがなんてあまり作ったことはないが、「母の味と言えば肉じゃが」と聞いても、違和感なくフムフム・・・と納得してしまう。母の味には、何か普遍的なイメージがあるのだろうか。それとも、それはメディアによる刷り込みみたいなものなのだろうか。「親父の味」ランキングなんて、そう言えば見たことも聞いたこともない。

 私に限って言えば、「親父の味」はある。玉子酒とキャベツの卵とじである。幼い頃、風邪をひくと、父に頼んで玉子酒を作ってもらった。砂糖が入ってドロドロしているそれは、私が2〜3口飲んでしまうと、あとは父が飲んでしまうのだが。甘い香りが鼻の奥に残ったまま、熱っぽくボンヤリとした頭でも「風邪も悪くないな」と思いながらぐっすり眠ったものだ。

 キャベツの卵とじ。これはおそらく父のオリジナルなのではないだろうか。父は畑仕事を趣味としているので、朝、犬の散歩に行った後、必ず畑仕事をしては大量の野菜を持ち帰ってくる。その中からキャベツを丸々まな板に置き、先にザクザクと芯だけとってしまう。あとは、そのキャベツを半分に割り、それをさらにザクザクと切る。私はかなり大きくなるまで、キャベツの切り方はこういうものだと思い込んでいて、学校の調理実習でこれをやらかして、大恥をかいたことがある。父の作ったキャベツの卵とじは、油でギラギラテラテラと光り、卵がドロッと半熟である。味付けは醤油のみである。なのに、何故あんなにもご飯に合うのだろうか。キャベツの甘さが何とも言えない。

 大学に入ってから一人暮らしを始め、自炊をするようになった。母の味は徐々にではあるが、真似て作れるようになった(・・・と思う)。しかし、どうしても再現できないのが父の味である。めったに病気をしない私だが、ふとした不注意で風邪をひき、悪寒が止まらずにあたふたとした時のことだ。とりあえず体を温めなければと思い、自分で玉子酒を作ったのだ。見様見真似な上、おぼろげな記憶を頼りにして作った私の玉子酒は、妙に酒臭く、卵も固まってしまい、砂糖の甘味も舌にざらざらと残って、とてもではないが飲めた物ではなかった。

 キャベツの卵とじは、春キャベツがあまりにも安く、調子に乗って二玉も買ってしまった時のことだ。初めのうちはシチューに入れたり、炒め物にしたり、ロールキャベツにして冷凍しておいたのだが、結局使い切れず、キャベツと言えば・・・!!で父の味を思い出して作ってみたのだ。これもまた、キャベツと卵がパサパサとし、味もどことなく焦げ臭く、父が作ったものと違うのだ。調味料は、油と醤油だけではなかったのか。

 帰省した時に母に話し、その晩は母の作ったキャベツの卵とじが食卓に並んだ。でも、違うのだ。これまたパサパサとし、味のほうも何か物足りなく、うまく言えないが「差し障りのない柔らかい味」なのだ。「違う違う」と連発する私に、父は一人ほくそえみ、「よし、じゃぁ、明日の朝、お父さんが作ってあげよう」と言うので、次の日の朝、父の味を習得すべく、台所に立つ父の横に張り付いていた。キャベツの切り方は昔と変わらない。ザクザクと大雑把に切る。驚いたのはそれからだ。父は次に、フライパンではなく底の深い大きな鍋を取り出し、これでもかと言うほど油をドボドボと入れたのだ。「そんなに入れて、体に悪くないの?」と尋ねると、「これくらい油が入っているほうがうまいんだ」と父は言う。油もよく熱していないうちにキャベツを一玉分入れ、「油が足りないな」と父はその上からさらに油を入れた。炒め物特有のジュウッという音がしないうちに、溶いた卵を大量にドボドボと鍋に流し込み、醤油を適当に回し入れ、しばし蓋をして出来上がりだった。まさに、キャベツと卵の油蒸しである。あぁ、ポイントは「炒める」のではないのね、油で蒸すのね・・・家族の毎日の健康と、これからのことを考える母にこの味が出せないのは尤もだと、その時に思った。もちろん、私も父の虎の巻を知った後でさえ、その味を未だに再現できない。油を鍋に入れる時、どうしても思い留まってしまうからだ。その躊躇いが、出来上がりに大きく影響を及ぼす。

 親父の味には、普段料理をする者の常識を越えた発想と、思いっきりのよさが必要なのだろうか。そう言えば、さくらももこのエッセイでも、親父の味が取り上げられていた。うろ覚えなのだが、さくらももこ(ご存知の通り、父はあの「ヒロシ」である)の父の味は、「ベトベトうどん」なのだそうだ。これまた父にしか作れず、ベトベトして煮詰まったうどんの話である。吉本ばななの短編集にも「おやじの味」(『体は全部知っている』、文春文庫)がある。これはバター味のベトベトしたオムレツで、妙においしいのだが、食べると一日胸焼けがする代物だという。ベトベト、ドロドロというところがポイントなのだろうか。どう考えても、体によさそうな食べ物とは思えない。でも、妙にうまいのだ。

 私の母は大雑把なためか、母の味には毎回多少のぶれがあったのだが、父は母に劣らず大雑把であるのに、父の味は頑なに変わらなかった。その父も、最近、新たな味を開発しているようである。数年前から父はキウイを作り始めた。間引きをしないとおいしくならないよと周りの者は言うのだが、父は頑なに間引きをしない。大量になったキウイは固くて小さく、すっぱいだけのもので、家族は誰も好んで食べない。二年前に帰省した時、父は誇らしそうに大量に砂糖をかけたそのキウイを私に勧めてきたのだが、あまりにも固くて食べるのに苦戦している父を見て、やむなく辞退させてもらった。昨年に帰省した時には、「健康にいいから」と、相変わらず固いキウイと豆乳、ヨーグルトをミキサーにかけた「健康ドリンク」なるものを私に勧めてきた。これまたドロドロの代物である。私が「朝、冷蔵庫に入っているヨーグルトを見たけど、賞味期限が切れてなかった?」と尋ねると、「そうか?でも、うまいぞ」とさらに勧めてくる。残念ながら、これも辞退させてもらった。その後、二歳になる孫にも「おじいちゃんの味、おいしいよ」と勧めていたが、二歳の子にもあえなく辞退されていた父である。セリフがおじいちゃんバージョンになり、健康志向になっている父。まだまだ「親父の味」は開発中のようである。

(2005年6月)