スタッフエッセイ 2005年4月

安全といのち

西 順子

 4月25日午前、私はたまたま仕事で塚口にいた。JRで脱線事故があったと聞いたが、その時はまだこれほどの大惨事とは思ってもなかった。でも、上空ではヘリコプターが飛び、物々しい雰囲気だった。昼過ぎに仕事を終えて阪急塚口駅へ。駅では号外が配られていた。その写真を見て、衝撃を受けた。私は朝、阪急を利用して塚口に向ったが、その時間に事故が起こっていたとは。私と同じように、いつもの朝を迎え、仕事や学校に向った方々が・・と思うと、他人事ではないと、いたたまれない気持ちになった。
 どうしてこんなことが起こったのか・・。マスコミの報道によると、いくつかの要因が重なっていると言うが、横転・脱線の直接的原因は、運転士が「1分30秒の遅れ」を取り戻そうとして、スピードを出しすぎたことであるようだ。
 
 つい最近、「時間の遅れ」と安全について考えることがあった。
日ごろ、めったに飛行機に乗ることはないが、先月2回、飛行機に乗る機会があり、たまたま2回とも、離陸・着陸予定時間の「遅れ」があった。一つは、着陸する空港の滑走路が混雑しており、上空で海の上をぐるぐる回ること30分。もう一つは、搭乗する飛行機の到着が遅れて、出発時間が1時間以上遅れた。「遅れます」というアナウンスを聞いた時、普段、電車の定時出発に慣れているので、一瞬困ったなと思った。そのあとの予定が狂うからだ。でも、同乗していた同僚から、飛行機の遅れはよくあることと聞いて、そんなものかと思った。時間の遅れは、安全優先のためであるかと思うと、そのほうが「遅れ」よりもずっといい、と納得できた。私は飛行機が大の苦手なので、遅れてもいいから、とにかく安全に到着してほしい・・と願う気持ちだった。

 「1分30秒の遅れ」、そんなことは安全であることに比べたら、私にとってはどうでもいいこと。「安全であること」は、いのちを守ることであり、何よりも優先されるべきこと。どうして、安全が優先されなかったのか。乗客たちは、いつもとは違う速さに違和感や、怖さを感じていたようだが、運転士にそういう感覚はなかったのか。安全であることの感覚が麻痺していたのではないかと思われる。それは、運転士個人の問題だけではなく、個人に重圧をかけている企業の責任であること、構造的な問題であることが明らかにされつつある。
 いのちの基本である「安全の感覚」を麻痺させるような働き方、そしてそれを強いる経営姿勢を問い直さなければならないと思う。「いのちを優先すること、そのために安全を優先すること、それが何にも代えがたいこと」、そんな当たり前のことを当たり前に優先できる企業、社会であることを望みたい。

(2005年4月)