スタッフエッセイ 2004年8月

子どもに暴力の種を蒔かないで

窪田容子

 子どもを保育所に送っていき、部屋で朝の支度をしているときだった。1才のJくんが、同じく1才のTちゃんの顔を叩いたとき、担任の保育士が、Jくんに近づいていき、ダメでしょとJくんの手を、パシッと叩いた。カッとなって叩いたという様子ではなく、複数の保護者の目の前での堂々とした行動。この4月に異動してきたベテランのこの保育士には、体罰はしてはいけないという認識がないということを直感した。穏やかに、話しかけてみた。「先生、子どもが他の子を叩いたら、いつもああいう風にその子を叩かれるんですか?」「ええ、叩く子は何回でもするし、言ってもわからないからねー。」「そうですか・・・」言葉につまり、その場を離れた。
 保育所を後にして、ため息が出るようなむなしさを感じていた。この数年間に、保育士の体罰を見聞きしたのは何回目だろう。最初の時は担任に話した。次の時には所長に話した。それでも体罰があったので、クラス懇談会の場で話したこともあった。「お母さん、子どもを叩いたことがないって、どうやって子育てしてるんですか?」と保育士に尋ねられて驚いたこともあった。ここしばらくは、体罰を見聞きすることはなかった。そしてまた・・・。
 「頭に血が上ってついうっかり」ということであったとしても、保育の専門家である以上、許されないことだとは思うけれど、人間である以上そういう間違いがあるあるかもしれない。でも、今回は体罰はしてはいけないという認識がなく、日常的にしていると言うのだ。所長に言ってだめなら、次はどこに持っていけば良いのだろう?市役所の保育所関係の課に手紙を書いたが、出すのをためらった。子どもがお世話になっている場の人に、苦情を言うのはいつもためらいを感じる。そんなことはないとは思うが、関係がこじれて、「親が憎けりゃ、子も憎い」となって、子どもにつらく当たられないかという心配が先立ってしまう。
 再度、所長に話すことにした。保育士が子どもを叩いているようでは、とても不安ですと伝えた。「そんなにきつく叩いたんですか?」と問われて、またがっかりする。きつくなければ良いというのだろうか。保育士が日常的に体罰をしていると話したことも伝える。「そんなことないと思います。」本人がそう言われているのだけど・・・。「私は知りませんでした。」日常的に叩いているのに、所長が知らなかったということも問題ではないだろうか。当の保育士とも話した。「ついうっかりと・・。」「いつも、叩かれると言われましたよね・・・」「子どもがお友達を叩くのは、危険にもつながるので、どうしても止めさせないとと。いろいろな子がいて、やはりその子の事情というのも良く知っていますし、そのあたりも考えて・・・」「事情を知っておられるなら、なおさら、叩くこと以外の方法を取ることにならないのでしょうか。まだ1才で、うっかりお友達を叩いてしまったJちゃんと、そのJちゃんを叩いた先生は同じ事をしているのではないのでしょうか・・・。」「あの場に、Tちゃんのお父さんがおられたので。やはり気持ちよくお別れさせてあげたくて。」これは、おそらく本音だろう。叩かれたTちゃんのお父さんに気を遣って、叩いたJ君に体罰をすることで、Tちゃんのお父さんの気持ちをなだめて、帳消しにしようとしたのではないだろうか。その場に親のいなかったJちゃんが、大人の思惑の中で、犠牲にされたのだろう。「 私は熱い人間でして、つい・・」熱い人間であること=体罰をする、という発想は根本的に間違っていると思う。どこまでも話はかみ合わない。
 その保育士は、自分個人の問題だと言われたが、私は、個人の問題としておさめて欲しくはなかった。この保育士個人を非難しようという気もなかった。複数担任制の保育所で、日常的に体罰をしている人が一人いるということは、周りはそれを知っていても許容しているということではないだろうか。体罰を許容している組織の問題だと私は思う。所長に、これまで体罰が見聞きした際に何度も伝え改善をお願いしてきたのに、また日常的にあることがとても悲しいし、他の面では、とても良い保育をし頂いていると思うだけに、とても残念に思うことを伝えた。
 子どもの関わる場所にはどこでも体罰がつきまとう。子どもの通う学童でも、サッカーのスクールでも体罰があることを見聞きした。子どもがお世話になっている場所で、体罰の問題提起をしていくことはエネルギーがいる。しばらくは影をひそめても、時間が経ち人が変わるうちに、またでてくる。がっかりし、もう面倒だなという気持ちにもなり、見過ごしたくなり、でもなと思い直して、また問題提起をする。そして、また同じことの繰り返し・・・。むなしいなと思う。だけど、問題提起をしていくことで、体罰に対して一人でも何らかの意識をもってもらえるなら、もしくはうるさい親がいるからということであったとしても、子どもたちが1回でも叩かれることが減るならば、子ども達に蒔かれる暴力の種が一粒でも減るならば、それだって意義のあることだと何度でも自分に言い聞かせようと思う。

(2004年8月)