スタッフエッセイ 2004年8月

子ども自身の人生って・・・

前村よう子

 このエッセイを書いているのは、ちょうどアテネオリンピック中。日本代表選手が、柔道・水泳・体操などで次々にメダルを獲得している最中でもある。メダルを獲得された選手はもちろん、惜しくも敗退してしまった選手も皆、私なぞには想像もつかないような練習の日々を送ってこられたのだろうと思うと、手放しで「スゴイなぁ」と思う。怠けたい時、逃げ出したい時、泣き出したい時もあっただろう。実際、髪を思いっきり明るい色に染めたり、練習をさぼったりというような逸話が、新聞や雑誌で紹介されていた方々もあった。そんな逸話を読むと、ちょっとホッとしている自分がいることに気付く。ロボットじゃなくて人間なんだから、いくら壮大な目標を子どもの頃から持っていたとしても、それを疑うことなく真っ直ぐ持ち続けることは困難だ。また持ち続けたとしても、挫折もあれば逃避もあろう。特に思春期の大きな波の中での揺さぶりもあるだろう。それが感じられたからこそ、私はホッとしたのかもしれない。
 今回のオリンピックでは、幾人かの代表選手を語る中で、「親のかなえられなかった夢を、子どもが実現する」とか「親子でオリンピックを目指して今日までやってきた」という文字がマスコミで何度か使われた。その度に、私と娘は顔を見合わせた。「じゃあ、子どもの人生って、何なん?」
 以下は、そんなある日の会話である。
私 「もしお母さんが、『あなたは私の子として生まれたんやから、この競技をすることからは逃げられないよ』と言って、あなたをビシバシ鍛え続けたら、どう思う?たとえ試合に勝てたとしても『こんな勝ち方やったら、世界には通用せーへんよ!』とか言いながら」
娘 「えーっ、ありえへんわ。っていうか、そもそも何で私がお母さんの子に生まれたからって、お母さんの夢をかなえなアカンのよ、おかしいやん。私には私の夢があるやん。もし、私がお母さんの夢をかなえる事をイヤがらへんかったとしても、じゃあ、私自身の夢はどうするの?ひょっとして、私の子どもにそれを託すの?そんなんアホらしい」
すると夫が横で言う。「ええんや、スポーツの世界っちゅうのはそんなもんや。お前らには分からへんだけや」と。そして私と娘は「娘や息子の立場である選手自身に、本音はどうなんか話を聞いてみたいなぁ。それと、人それぞれ、いろんな考え方や価値観を持ってはるやろけど、今回のオリンピックで美談になってしまうのは怖いなぁ」と、また二人でいろいろ話すのである。
 スポーツに限らず、音楽・芸能・専門的な職業など様々な世界で、「親のかなえられなかった夢を、子どもで叶える」という図式が見られた時、それを美談にしがちな傾向はないだろうか。それどころか、「美談」以外の何者でもないと思っておられる方は少なくないのではないだろうか。
 でも、これは親という立場を使っての力によるコントロールだと私は思う。物心つくかつかないうちから、親の思いをかなえるためだけの存在として育てられる。おそらく、思いにかなった行動を子どもが取れば「ほめる」だろうし、違えば「怒る」だろう。手も足も出るだろう。子どもはそれでなくとも、親に認めてもらいたい、ほめてもらいたいと思っているから、一生懸命に親の思う自分になろうとする。どうしても能力が伴わなければ、親も途中で諦めてくれるかもしれないが、たまたま子どもの能力が合ってしまえば、シナリオ続行である。下手をすると、思春期の波さえ無視して「親の願い=自分の願い」で突っ走ることだろう。そのまま最後まで、コントロールされ続けて一生を終えることができれば良いのかもしれない。けれど、人生、どこかでツケがまわってくる。コントロールされ続けた自分の人生を振り返る時、辛いだろうなと思うのだ。現に、私自身がそうだったから。

 親も子どもも、それぞれが自分自身の人生を選び、責任を持って、一生懸命生きていけるのがいいなぁと私は思う。こちらの生き方こそが、今の時代、難しいのかもしれない。

(2004年8月)