スタッフエッセイ 2004年8月

娘の病気に思うこと

津村 薫

 6月中旬の朝方、いきなり娘が唸り出した。39度を超える発熱。小学生の時に大病をし、入院・手術をしたことこそあるが、中学の3年間は病気欠席のなかった元気な娘にしては、とても珍しいことだ。病院が大嫌いなのに「行く」と言う。よほどしんどいのだ。何だか嫌な気持ちがする。どうしても、娘が大病をした小学生の頃に引き戻されてしまうが、「いやいや、私の取り越し苦労だ」と自分に言い聞かせる。

 この前日と前々日は、私の祖母の仮・本通夜だった。娘も最初に誕生した曾孫として随分可愛がられていたので、母子2人で駆けつけていた。97歳の大往生なので、通夜の席はさばさばしたものだ。久しぶりに会った従兄弟たちと、懐かしい思い出話で笑い声があがる。その中で、娘のけだるそうな態度がいやに気になった。日頃、行儀が良い子でもないので、「せめてこんな席でくらい、きちんとしていればいいのに」と感じ、それとなく注意もした。けれど、娘は人の生死に関するような場でいいかげんにふるまうような子ではない。今にして思えば、その時既に、かなり体がつらかったに違いない。長時間に渡って、普段とは違う緊張が強いられるから、疲れてだらだらしているのだと決めつけてしまい、わかってやれなかったことを悔いている。 

 夫は、今春から名古屋に単身赴任中。それを知っている隣人夫婦が好意で車を出してくれ、朝一番に病院に送ってくれた。しばらく待つと診察室に呼ばれる。今朝方からの様子を説明する。血液検査の結果を見る医師の様子がおかしい。娘の触診をしながら、どんどん表情が険しくなっていく。

 「所見では白血病」と信じられない言葉が医師の口から出た。この人はいったい、何を言っているのだろう?ぐらりと大きく体が崩れてしまいそうになるのを自分で懸命に支えて聞く。娘は既に診察室の外に出て、待合室で隣人が見てくれている。血液内科がある病院に入院して検査をする必要があるかもしれないと、大阪に住む人なら誰でも知っているであろう大病院の名前がいくつか挙げられる。

 聞いたことのないウィルスの名前を聞かされ、そのウィルスによる疾患の可能性も高いという話になり、安静第一なので、とにかくそのままこの病院に入院ということになる。気が動転しているのだが、それは娘に悟られる訳にはいかない。尤も、娘も高熱を出している上、リンパ腺や脾臓の腫れなどの症状で立っているのも苦しい中、治療や検査に従うのがせいいっぱいだったが。病室に案内されてから、点滴が始まる。娘がうとうとし始めたので、すぐに荷物を取りに帰り入院の支度をした。夫と実家、自分の職場などに急いで知らせる。それを聞いて皆が絶句してしまった。

 それから1週間余り、高熱と痛みが続く。白血病の疑いは消えたが、そのウィルスとやらを調べてみると、ガン性のウィルスだということもわかった。保健師の友人からも情報を教えてもらう。このウィルスが慢性化した場合、即ちそれは悪性ガン併発を意味していることも、死への転機を辿るということも知った。肝機能の数値などが改善しなければ、転院しなければならないということも知らされている。重症化の可能性は決して高くはないともわかったが、日本人の90%強に免疫があるという、このウィルスの免疫が、娘にはなかったのだ。その少数派に入らないと、どうして安心できただろうか。

 何より怖かったのは、娘の凄まじい症状と痛みだ。「まさか・・」と最悪の可能性が脳裏をよぎり、慌てて打ち消すということが何度あっただろうか。声も殆ど出ないような状態で、「ママ、助けて」と言われた時には、頭がおかしくなりそうだった。「おばあちゃん、この子を助けて・・連れて行かんといて、絶対に守ってな・・・」天に召されたばかりの祖母に頼み込みたい気持ちだ。

 珍しい病気だというのに、この病気に昔かかったという知人が、偶然にも2人いた。ひとりは20歳で発症したというが、あまりの苦しみに自分は死ぬのだと思い、真夜中の病室でひとり、よく涙したという。娘は15歳で、しかも多感な年頃で、その苦しみに耐えたのだ。どんなにつらかったことかと思う。もうひとりの知人からは、お仕事をされながら看病を続けられ、帰り道では涙していたというご家族の様子などを聞かせてもらえるのがありがたかった。それでも頑張って、子どもを支え続けた人がいるのだ。見習わなくてはと励まされた。何より、この病気を克服して立派に大人になり、元気に暮らしておられる、ご本人たちの存在そのものが支えになった。

 仕事という仕事はすべてセーブしたが、予定していた講演だけは何とかこなす。私が留守をする間、実家の母や、隣人が病室にいてくれた。毎日毎日、病院に詰めて、深夜に帰宅する。「どうして私たち家族3人はバラバラに寝ているんだろう」・・・などと、毎晩思う。食欲はないので、何かを食べる気にもなれない。第一、食べようという意欲が涌かない上、周囲に叱られて口にしても、味がわからない。何かが楽しいとか嬉しいなどという感覚が、自分の中で壊滅しているのを感じていた。悪夢を見ているのではないかと思った。闇の中に放り出されたような感覚。そんな中、毎日毎日、仕事仲間たちには暖かいメッセージをもらい、実に慰められた。胸を痛めて心配してくれている人がいる、ということがありがたい。何もしてやることができないという無力感に責めさいなまれてしまうからこそ、祈りが届くということを信じたい。祈ってくれている人がいることが何よりの支えだった。

 遠くにいて何もできない夫は夫で、不安にかられ、私とは違う、つらい思いをしたことだろう。娘に何かあれば、支えあってきた夫がいないというのは、心細いことだった。電話やメールでは、なんともどかしいことか。休みをとって飛んできた時には、ずっと病室を離れず、娘が食べたがるものを買いに行き、一生懸命看病していた。入院当初、個室の病室を怖がる娘が「どうしたら怖くなくなるんかな」と言い出し、夫が「歌を歌うと怖くなくなるんちゃうか?」とメールしたらしい。すると「誰かがその続き、歌ったらどうすんの」という返信を娘がしたのだとか(笑)。さすが、ホラー好き。「へんなこと考えるヤツやなあ」とあきれる夫。この父娘の会話は時折ヘンテコで、聞いている私がおかしくなる(笑)。

 娘が通うのは教育熱心な高校だが、担任の先生が「勉強のことは何も心配要りません。学校はできる限りのことをします。クラスの子どもたちとも相談して、精一杯のフォローをさせてもらいますので、安心してしっかりと治療に専念してください」と言ってくれ、心強かったし、ありがたかった。入院を言い渡されたとき、「勉強が遅れてしまうやん、大変なことになってしまう」と言っていた娘も、「先生がこう言ってくれたよ」と伝えると安心したのか、二度と「病院に教科書を持ってきてほしい」とは言わなくなった。

 クラスメートたちから、励ましのメールも届いていたようだ。「負けんなや うちらがついてる」というメッセージつきの“カナヘイ”のイラスト(女子高生らしき女の子たちが皆でこちらを見つめ、励ましているような表情をしているもの)が娘の携帯電話に送られてきたのを見せてもらった。療養中の今も、携帯電話の待ち受け画面に、娘はそのイラストを設定している。どさっと、授業のノートのコピーもいただいた。お手紙をもらったり、7月6日の娘の誕生日に、自宅までプレゼントを持ってきてくれたお友達もいる。進学校というイメージが強く、脱落する子は容赦なく切り捨てられるかのような先入観が娘にはあったようだ。実は私もどの程度、学校がフォローをしてくれるものか、まったく知識がなく不安ではあった。でも、本当にありがたいことだ。高校受験では苦い体験をした娘だけれど、縁あって進学した高校で、良い出会いをしていることに感謝したいと思う。

 娘が元通りの生活に戻るには、もう少し時間がかかる。発病した当初は、とにかく元気になること、それだけが望みだった。今は、養生しつつ、どこまでのことをしてよいのか否かということに課題が移行しつつある。しばらくは脾臓破裂の危険性が残るというからだ。私たち夫婦は心配なものだから、ひやひやしつつ、それでも止めてばかりも不憫だし、娘の気持ちを尊重しつつ、どのあたりで折り合うのかというところで頭を痛める毎日だ。

 40度の熱があった頃、リンパ腺がぱんぱんに腫れて、声すらまともに出せない状態だったが、苦しそうにしながらも、娘がこう言った。「あのな・・元気になったら・・・アレもしよう・・これもしよう・・・って・・・したいこと・・・いっぱいあるねん・・・」瞬間、さまざまな思いがよぎった。そう言いながら叶わず・・などという悪夢ではないかと恐れては打ち消し、こんな意欲があるのだから、きっと大丈夫と信じ、どうかそれをさせてやってほしいと心底願った。目頭が思わず熱くなるのをこらえながら、「うん、いまは苦しいけど、早く良くなってあれもこれもしよな!」と言って娘を抱きしめた。それは何だったのだろう。勉強ではなかったようだけれど・・・。卒業と共に東京に移り住み、遠く離れたけれど、ずっと手紙をやりとりしている(お互い携帯を持っているのに、文通しているのが面白い)親友に会いに行こうと思ったのだろうか。いずれ挑戦してみたいと言っていたアルバイトだろうか。水着が欲しいと言っていたから海へ行くことだろうか。この夏は無理でも、人生はまだまだこれから。ぼちぼちいこうね。

 ・・・・・・・・・この子を助けてくれてありがとう。(2004年8月)